三八二年 雨の四十八日
夕刻。ようやくひと息つけると、ウィルバートは嘆息する。
朝からリオル夫妻と共にミルドレッドへ行き、諸々の手続きのあとアルスレイムへと送り出した。事後処理を経てライナスに戻ったのがつい先程。
これで今回の仕事はほぼ終了。あとはジェットから報告書を受け取るだけだ。
手元のグラスを眺めてから、ひと口含む。
本来事務員である自分はそうそうアルスレイムから出るものではない。それなのに、ここ三十日程の移動距離は尋常ではなかった。それに加え、通常業務に医者の手配―――。特別手当が出るにしても、正直割に合わない。
息をつき、グラスを傾ける。
いつもなら客が増えるまでククルかテオと話して飲むペースを調節するのだが、疲れているせいか、会話をする気が起きない。ククルたちにも、店はいいから休んだほうがと言われた。しかしそれでも、何故か足はここへ向くのだ。
そのうちに、ふたり、三人と客が入り始める。やはり疲れているのだろう、いつもは気にも止めない住人たちの会話がやけに耳についた。
両親を亡くしたあと、成人もまだのククルが立派に店を切り盛りしているとほめている。
―――そう。本人たちはほめているつもりなのだ。
心をよぎる影にかぶりを振り、残る酒をあおる。
(…駄目だ、こんなときに考えたら…)
足を掴まれ引きずり込まれるような感覚。
疲れているからか、上手く思考が浮上しない。
今まで何度も何度も自問してきた。答えなどないこともわかっている。
(どうして、俺は―――)
「ウィルバートさん?」
かけられた声に思考が途切れる。
はっと顔を上げると、ククルが心配そうに自分を見ていた。
「どうかされましたか?」
まっすぐ自分を見つめる紫の瞳に、何故だか言葉が出なかった。
自分と同じような境遇であるはずなのに。
自分と同じようなことを言われているはずなのに。
いつも楽しそうに店に立ち、嬉しそうに食事を出す彼女。
己の狭量さを突きつけられたような気がして、テーブルの下で拳を握りしめた。
「ウィルバートさん?」
再度名を呼ばれ、今度こそククルを見る。
「すみません、何でしょう?」
笑ってみせるが、ククルの心配そうな表情は変わらなかった。
いつもと様子の違うウィルバートに、ククルは大丈夫かと視線をやる。
グラスが空いたので食事にするかと尋ねたのだが、もう一杯酒を頼まれた。疲れているだろうし、いつもよりペースも早い。やめておいたほうがいいとは思ったが、お願いしますと静かに言われて断れなかった。せめてもと、水のグラスも一緒に出す。
仕事で来ている人に、これ以上無理はさせられない。
考え込むように宙を見据えるウィルバートが二杯目を半分程飲んだ頃に、ようやく客が途切れた。
テオにアレックを呼びに行ってもらい、ククルはウィルバートに声をかける。
「あとはアレックさんに来てもらいますから、ウィルバートさんは部屋で休んでください」
かけられた声に視線を上げ、ウィルバートはわかったと呟いた。
酒のせいか、いつもより声が低い。
立ち上がる様子は酔いが回っているようには見えず、ククルはほっとしてカウンターから出てきた。
「疲れているのにありがとうございました。ゆっくり休んでくださいね」
微笑んで告げたククルに、すっと紺の瞳が細められる。
「…何とも思わないのか?」
突然普段とは違う口調で言われ、ククルは驚いてウィルバートを見上げた。
「ウィルバートさん?」
「あんたには何の非もないのに、朝から晩まで働き詰めで」
刺々しい声で、吐き捨てるように続ける。
「理不尽だと、思わないか?」
じっとククルを見据える瞳は、自分を通り越してほかの誰かを見ているように思えた。
あまりに様子の違うウィルバートに、ククルは内心うろたえていた。しかし睨むように自分を見るその瞳の奥に辛苦の色を感じ、何となく目を逸らせず、まっすぐ―――ただまっすぐにウィルバートを見返す。
しばらくそのまま見つめあっていると、ふっとウィルバートの視線が揺らいだ。
「ウィルバートさん?」
今度こそ目が合ったところで名を呼ぶと、ウィルバートがひゅっと息を呑む。
「…戻ります」
短くそれだけ呟き、ウィルバートは逃げるようにその場を去った。
あまりにもらしくない言動、そして追い詰められたような表情。疲れたというだけではない何かがあったのだろうか。
心配ではあるが、とにかく今は休んでもらったほうがいい。
ウィルバートのトレイを片付け、カウンターに戻る。
(…理不尽、かぁ)
一瞬だけ視線を落とし、ククルは笑った。




