三八三年 雨の二十四日 ①
いつもよりまだ早い時間ではあったが、なかなか部屋を出る決心がつかないまま、テオは扉の前で溜息をつく。
昨夜、アレックに一緒に飲めと誘われて。年始にククルと四人で一度飲んだだけなので、もちろんそんなに飲むつもりはなかった。
しかし酔いの回ってきたジェットがククルのことをからかうように聞いてくるのに苛立って。聞こえない振りをするのに飲んでいたら、どうやら過ぎてしまったようで。
見かねたダリューンにもう帰れと助けられ、家に戻ってきたまではよかったのだが。
どこか現実味のない感覚の中、目の前にククルがいて。
明日はゆっくり来ていいと言われて。先日のロイヴェインのことを思い出し、自分は必要ないのかと思ってしまった。
駄々をこねるようなことを言ってククルを困らせて、挙句の果てにククルの頬に手を伸ばして、いいかと聞いて。
自分としては、ククルの隣にいていいかという意味だったのだが。
(絶対に違う意味で取られてる……!)
赤面して慌てふためくククルの顔を思い出し、肩を落として嘆息する。
どんな顔をして前に立ち、どんな言い訳をすればいいのか。
いくら考えても思いつきそうになかった。
まだ眠るレムを起こさないように、身を起こしたククルはそっと息をつく。
昨夜のテオは本当に様子がおかしかった。
どうにも噛み合わない会話。自分を見つめる眼差し。
頬に触れる手の感触を思い出し、慌ててふるふるとかぶりを振る。
(酔っていたんだろうけど…)
自分の隣は俺の場所なのだと、テオは言っていた。
テオが誰に向かって言ったつもりかはわからないが。
(…そんなこと言わなくても)
店の厨房、自分の隣に立つのは。
自分にとっても、テオしかあり得ないのだから。
思わずくすりと笑ってから、続く言葉を思い出す。
どういう意味か答えられる前にレムが来てくれてよかったと、再び紅潮する頬を自覚しながらククルは吐息をついた。
やがて起きてきたレムと一緒に一階に降りると、既にテオは朝食を食べ始めていた。
「おはよう」
「おはようテオ」
「お兄ちゃんおはよう」
挨拶を交わし席に着くと、テオが苦笑と共にごめんと謝ってきた。
「昨日、だいぶ酔ってたみたいで」
いつも通りのその様子に、ククルは内心ほっとする。
「ううん。テオは大丈夫?」
「うん。平気」
苦笑のままだが頷いて、テオは息をついた。
「でももうジェットとは飲まない」
ぼそりと足されたその言葉に昨日の元凶が誰かを知り、ククルも思わず溜息をつく。
まだ酒に慣れていないテオに、あんなになるまで飲ませるなんて。
あとで注意しておかないと、とククルは心に決めた。
朝食を終え、テオとふたり店に向かう。
「ククル」
裏口の鍵を開けていると、うしろから名を呼ばれた。
振り返ると、少し困ったようにも見えるテオが、ごめんともう一度呟く。
「隣にいていいかとか。変なこと言って」
まだ気にしているのかと、大丈夫だと首を振ってから。
ふと、気付く。
(……いい、ってそういうこと…?)
昨日のテオの言葉を思い出してみると、確かにそう取れる。
それなのに。
(私、勘違いしてあんなこと……!)
熱の上がる頬。
妙な勘違いをしていたことに気付き、恥ずかしくて仕方ない。
「…私こそごめんなさい……」
どうにかそれだけ呟き、見返すテオに背を向けて、逃げるように店に入った。
赤面し謝るククルに、どうにか誤解を解くことができたとほっとするテオ。
結果勘違いだと指摘することになってしまい、ククルには申し訳なかったが。
慌てた様子で店に入っていくククルの背に、ぐっと拳を握り込む。
―――酔った勢いで触れた頬。
ククルに触れたいという気持ちは、もちろん自分にもあって。
許されるのであればもっと距離を詰めて、自分がどれ程彼女を好きなのかを、わかってもらえるまで伝えたいと思う気持ちもあるのだが。
それができない己の不甲斐なさと、物足りなくも心地良い今の立ち位置とに、どうしても二の足を踏んでしまう。
いつまでも当たり前に隣にいられるわけではないのだと、わかってはいるつもりなのだが―――。
朝食の客が捌けた頃に起き出してきたジェット。
おはようと声をかけるなりククルに睨まれ作業部屋に引っ張り込まれ、飲ませすぎだと説教される。
テオはテオで、もうジェットとは飲まないからと言い放ち、それきり口をきかなくなった。
テオに無理矢理飲ませた覚えはないのにと、何が何だかわからずに定位置で水を飲んでいると、宿の手伝いから戻ってきたダリューンに呆れたような視線を向けられる。
「…俺、何かした?」
降参とばかりにダリューンにそう尋ね、昨夜の己の言動を客観的に告げられて。
頑なにそっぽを向くテオに謝り倒し、ジェットはどうにか許しを得た。




