三八三年 雨の十八日 ①
今日も雨が降っていた。
朝身支度を終えて降りてきて、いつも通り裏口の鍵を開けておく。
そこから店のほうへやってきたククルは、鍵の閉まる入口の扉ががたんと引かれたことに気付いた。
慌てて鍵を開けると、先に扉を開かれる。
「おはよ、ククル」
「ロイ!」
自分が来るより前から待っていたらしい。
「ちょっと早すぎたみたい」
そう言って笑うロイヴェインに、とりあえず店内に入ってもらう。
「まだ火も入れてなくて…」
雨避けを預かる際、わずかに触れた手の冷たさにククルは驚く。
「ロイ、手が…」
思わず温めるように、自然に握り込んだ。
目を瞠ったロイヴェインが直後にうろたえた表情に変わったことで、自分が何をしたかに気付く。
「ごめんなさいっ」
「待って」
慌てて放した手を、今度は逆に握られた。
「…そんなつもりはないってわかってる。勘違いはしないから」
ぎゅっと握りしめ、まっすぐククルを見つめるロイヴェイン。
「今日、帰るからさ。その前にちょっと話せたらって思ったんだけど」
勘違いはしないという割には熱の籠もる眼差しを向け、逃げられぬよう手を包み。
「…わかってても、嬉しいんだよ」
吐息混じりの呟きが洩れる。
「…わかってても、縋りたくなるんだよ」
翡翠の瞳が伏せられ、ゆっくりとロイヴェインがうなだれる。
「…それくらい、ククルのことが好きで好きで仕方ないんだよ……」
堪えきれなかった言葉はそのまま沈黙の中に落とされた。
らしからぬ様子でうつむくロイヴェインに、ククルもまたかけるべき言葉が思い当たらずに立ち尽くす。
昔のからかう態度でも、最近の少しだけ踏み込んでくるような態度でもなく。
ただ堪えきれずに零れた言葉は、おそらく彼の本音に近いもので。
ただひたすらに自分に向けられるそれを、しかしククルは受け止めることができなかった。
互いに黙り込むことしばらく。
満ちる静寂を破るように、ロイヴェインが息を吐いた。
手を放し、がばりと顔を上げ、ふっと微笑む。
「……ごめん! またやっちゃったね」
口調は軽いが、まだ声音は沈んだままだった。
「一度戻るよ。邪魔してごめんね」
渡しかけた雨避けを再び持ち、ロイヴェインは店を出ていった。
いつも通りの時間にやってきたテオは、ククルの様子を怪訝に思う。
「…何かあった?」
そう尋ねるが、首を振られた。
「大丈夫」
その返答に何かはあったのだと知るテオだが、肝心の部分を教えてもらえないままで。
見回す店内、いつもならまだ閉まったままの入口の鍵が開いていることに気付き、ようやく思い当たる。
「ロイが来たんだ?」
「…一度戻るって。また朝食のときに来ると思うわ」
ごまかしはされなかったが、すべて話してもらえたとはとても思えず。
こちらを見ずに朝食の準備を進めるククルをじっと見つめる。
「何かされた?」
「……ううん。違うの」
一瞬の揺らぎのあと、ククルは落ち着いた声で否定した。
「私は自分の無神経さに呆れてるだけなのよ」
ゼクスたちと共に朝食を食べに来たロイヴェインは本当にいつも通りで。少し心配そうな視線を向けるククルに優しい笑みを返す。
「この天気だからな。ミルドレッドからは馬車で帰ろうと思う」
食事を終えたゼクスがわざわざそう伝えてくれた。
「ありがとう、ククルちゃん。こうしてここで過ごせてよかった」
「私のほうこそ。来ていただいてありがとうございます」
心からの礼はきちんと伝わったようで、見返すゼクスの眼差しが一際優しいものになる。
「次はまた訓練のときだな」
「頻繁に来られて嬉しいよ」
そう言い笑うノーザンとメイル。
「はい。楽しみにしてます」
ククルの返答に嬉しそうに頷いて。
「儂らも楽しみにしとるよ」
しみじみと、ゼクスもそう告げた。
帰る前にもう一度挨拶に寄ると言い、ゼクスたちが立ち上がった。
同じように立ち上がったロイヴェインだが、その場で動かずゼクスたちを見る。
「先行ってて」
短くそう告げ、ククルを見やる。
「このままじゃ帰れない。話、させて」
「そうね」
すぐに頷いたククルに嬉しそうに瞳を細めて。
「心配ならいてもいいから」
ククルの隣、少し厳しい眼差しで自分を見るテオに言い、まっすぐ見返す。
逸らさずそれを受け、テオは息をついた。
「…ククルが話すって言ってるのに。俺がどうこう言うことじゃないだろ。…ただ、ロイ」
向ける眼差しも一歩も引かず、続ける。
「前に俺に言ったこと。忘れてないよな?」
「ああ」
もう泣かせない。そう言った。
「忘れてないよ」
「ならいい」
もう一度嘆息し、作業部屋にいるからとククルに告げるテオ。
「儂らも戻るが。ロイヴェイン、わかっとるな?」
「わかってる」
わざわざ名を略さず念を押すゼクスに、馬鹿な真似はしないと頷く。
ゼクスたちは店を出て、テオは作業部屋へと行き。
残るふたりが向かい合った。
どう伝えればいいのかとククルは思う。
ロイヴェインの気持ちを知りながら、応えられもしないのに無自覚に振る舞い、追い詰めた。
以前アリヴェーラにも気を付けるよう言われていたのに、結局はこうして人を傷付けることになった。
いつまでも成長せずに周りを困らせる自分が申し訳ない。
「ロイ、私…」
「謝るつもりだったらあとにして」
何を言うつもりだったのかはわかっていたらしい。そう言葉を遮り、ロイヴェインは笑みを見せる。
「まず俺の話を聞いて?」
その笑みには怒りも呆れも含まれていなかった。
「…確かにさぁ、どうかと思うよ?」
存外に軽い口調はこちらに気を遣わせない為なのだろう。そしてその割に優しい眼差しは、彼の気遣いの表れで。
「俺ククルに好きだって何度も言ってるのに。そんな相手にあんなことしたら、キスされたって文句言えないんだからね?」
しとけばよかったかな、とぼそりとつけ加えるロイヴェイン。思わず顔を赤らめるククルにくすりと笑う。
「ククルはさ、誰にでも優しくて。いつでも親身で。人のことばっかり心配して。喜んでもらうのに一生懸命で」
「ロイ??」
何故か急にほめられて慌てるが、気にした様子もなく続けるロイヴェイン。
「その一生懸命がちょっと行き過ぎるから、勘違いしそうになるけどさ」
一瞬よぎる翳りはすぐに消され、ただ穏やかな眼差しが向けられる。
「それでも、やっぱりそれがククルなんだし。優しくされて嬉しいのはホントだし」
ロイヴェインが右手を伸ばし、ククルの左手を取った。
「俺はそんなククルが好きなんだから。だからククルはそのままでいいよ」
名を呼ぶ前に、ぎゅっと握り込まれる。
「これからも目一杯優しくしてね?」
ククルの手を握りしめ、ロイヴェインは笑みを向ける。
そう。それが彼女なんだから、そのままでいい。
間違いなくほかの男にも同じ優しさが向けられていると思うと妬けるが、仕方ないと思うから。
だから自分にも。
「…その言い方は、何だか…」
「そう?」
わざとらしい言い方に困り顔のククル。くすくす笑ってロイヴェインが手を放す。
「でさ、ククルはまだ謝るつもり?」
軽くそう言うと、少し戸惑ったように見上げてから、ククルは紫の瞳を細めた。
「…いえ。ありがとう、ロイ」
代わりに礼を言うククルに、ロイヴェインは満足そうに笑う。
「俺のほうこそ。ありがと、ククル」
ロイヴェインが宿に戻りしばらく。
帰路に就くゼクスたちが挨拶に来てくれた。
口々に別れを告げるゼクスたちと、うしろで微笑むロイヴェインに。
「お気を付けて。また、お待ちしてますね」
ククルは帰路の無事と、再会を願った。




