三八三年 雨の十七日
雨の中、朝食を終えたギャレットがライナスを去ることになった。
「色々とありがとう。また次もよろしく頼むよ」
柔和な笑みを浮かべるギャレットに、ククルも微笑んで頷く。
「こちらこそ、色々お気遣いいただいてありがとうございました」
直接会うのが二回目だということも忘れる程、この一年、ずっと気にかけてきてくれたギャレット。心からの感謝と共に、ククルは続ける。
「お待ちしてますね」
頷き、ギャレットはテオに視線を移した。
「皆のいい刺激になっているみたいだから、よければ今後も訓練に参加をしてもらえないかな」
訓練への参加の許可ではなく要請に、テオは瞠目してから嬉しそうに笑みを見せる。
「ありがとうございます。いいなら、喜んで」
「頼んだよ」
優しい声音でそう続けてから、ふたりのうしろのジェットとダリューンに目配せをして。
「ではまた」
「お気をつけて!」
「ゆっくり行くから大丈夫だよ」
ククルが何を心配しているのかに気付いているのだろう、すぐにそう返し、ギャレットは店を出ていった。
雨なので見送りはいいと言われ、閉じた入口を見つめるククル。
「俺たちは旅仕事なんだから。無茶はしないって」
雨の帰路を心配するククルの頭を、ジェットが撫でる。
「信じてくれ」
「…わかってるわ。ごめんね、心配かけて」
呟くククルに答えないまま、ジェットはもう一度頭を撫でた。
謝るククルの頭を撫でながら、ジェットは内心嘆息する。
昨日最後に、ロイヴェインに聞かれていたククルの様子を皆に伝えた。
自分が事故に遭うことというより、誰かが事故に遭うことを心配しているのだろうというダリューンの言葉に、ギャレットもミルドレッドに寄る分を差し引いてもあまりある時間の余裕を取り、後日来るウィルバートにも、強行軍を避けて日程を組むように告げられることになった。
皆がククルを気遣ってくれるのは本当にありがたい。しかし同時に、そこまでククルを追い詰めてからしか気付けなかった自分を情けなく思いながら、ジェットはもう大丈夫だと笑うククルに笑みを返した。
ギャレットの出立を待ってから、ロイヴェインは店へとやってきた。
「いてていい?」
「もちろん。好きなだけどうぞ」
どうしてそんなことを聞くのかとばかりに笑うククル。変わりない笑顔にほっとしながらカウンター席に座る。
ゆうべジェットから話を聞き、ククルの様子のほかにも心配していることがあった。
事故現場を通ったことであの日のことを思い出して、また怯えられたらどうしよう、と。
もちろん自分がここへ来てからそんな素振りはないが、今回は口説かないと決めていたのでククルに触れていない為、本当に大丈夫なのかがわからない。
こんな状態で帰るのはどうしても嫌だった。
祖父たちには食堂に来ないよう頼み込んである。最近は真面目にやっていることもあり、ククル相手に馬鹿なことはしないと信用してはもらえているようだ。
ジェットとダリューンが宿を手伝っているのは確認済み。あとはテオが宿へと戻ったら、その間に確かめたい。
しばらく仕込みをしていたテオがちらりと自分を見てから、仕方なさそうに宿へ行くのを待ってから。
ロイヴェインはまっすぐククルを見つめた。
視線に気付いて顔を上げたククルは、じっと自分を見つめるロイヴェインに首を傾げた。
「どうかした?」
かけられた声に、うん、とロイヴェインが頷く。
「ククルを見てたんだ」
嬉しそうに細められる瞳。
「ね、俺にも何か手伝わせてよ。切るくらいならできると思うし」
そう言って立ち上がるロイヴェイン。
「駄目かな?」
期待と不安の入り混じるその表情。昨日の朝に断ってしまったこともあり、さすがに今日も断るのは気が引ける。
「…じゃあ少しだけ」
「ありがと!」
頷くと満面の笑みで礼を言われた。いそいそとカウンター内に入ってくるロイヴェインに、そんなに手伝いたかったのかとおかしくなる。
「何?」
「いえ、ロイが嬉しそうなので…」
笑いそうになっていたことに気付かれたらしい。怪訝そうなロイヴェインにそう返すと、その笑みがさらに深くなった。
「嬉しいに決まってるよ」
笑みから洩れたにしては低い呟きに、ククルが違和感を感じた瞬間、ロイヴェインにさっと両手を取られた。
向かい合い両手をつないだ状態で、ロイヴェインはククルを見つめる。
「じゃあ、どうすればいいか教えて?」
握り込まれる手と熱の籠もる眼差しに、ククルは一瞬言葉を失い。
はっと気付いて、赤くなる。
「ロイっ!」
「ごめん」
どこか満足そうに微笑んで、ロイヴェインが手を放した。
昼食客が一段落し、ククルは再び仕込みを始めていた。昼食の間戻ってきていたテオが、エプロンを外しながら謝る。
「ごめんな、向こう、また……」
何故か言葉を濁すテオ。
「もうちょっと手伝ってくるよ。何ならダンにこっちに来てもらうけど…」
「ロイも手伝ってくれたし大丈夫よ」
ぴたりとテオが動きを止めた。
「ロイが?」
「野菜を切るのを手伝ってくれたの」
家で料理はたまにしかしないと言っていたが、やはり器用なのか、安心して任せられた。
「……そうなんだ…」
テオの呟きに含まれるものには気付かずに、いつも通り顔を見ないままで頷くククル。
「だからこっちは気にしないで」
暫しの沈黙のあと、ふっとテオが息を吐いた。
「わかった。行ってくる」
「行ってらっしゃい」
そう微笑むククルをしばらく見てから、テオは店をあとにした。
(いつの間に……!)
裏口から宿へと戻りながら、テオは心中そうぼやく。
店へ来ているだけではなく、カウンターの中にまで入りこんでいたのかと。
店の厨房。ククルの隣。
自分の場所なのに、と。
込み上げる気持ちが怒りか落胆かもわからない。
ククルが誰を選んでも、あの場所だけは自分のものなのだと思っていた。
もしククルを諦めることになったとしても、あの場所だけは自分に残されるのだと思っていた。
もしそれすら手放さなければならなくなったら。
自分には一体何が残るというのだろうか―――?
テオと入れ替わりでまた店にやってきたロイヴェイン。
「今度は何を手伝わせてくれるの?」
もう特には、と答えかけ、手を借りることができればかなり助かることがあったのを思い出す。
少し迷ってから、結局ククルはロイヴェインにそれをお願いした。
「泡立てるの?」
「量が多いので大変だと思うけど…」
「ううん、大丈夫」
任せて、と笑うロイヴェイン。
メレンゲができる間に生地を混ぜ、合わせて型に入れる。
「これって…!」
何を作っていたのかはわかったらしい。嬉しそうに自分を見るロイヴェインに、ククルは笑って席を勧める。
「焼き上がるまで休んでてね」
お茶を淹れる準備をしながら、仕込みを進めて。
やがて漂う甘い香りが、焼き上がりの合図だった。
「ロイに出すものなのに、手伝わせてごめんね」
そう言ってククルが出したのは、焼き立てのスフレチーズケーキ。
「この前は焼き立てを出せなかったから」
微笑むククルとチーズケーキを見比べ、ロイヴェインは心からの笑みを浮かべた。
本当に、と、思う。
自分が好きだと言った菓子を、こうして自分の為に作ってくれて。
どうぞと微笑んで勧められて。
彼女にそんな気はないとわかっている。自分が特別なのではないと知っている。
そうであってほしいと。願う気持ちと裏腹に。
嬉しいのに胸が痛い。
でも、言えない。
辛くても。自分に向けられるこの微笑みを、やめてほしいだなんて言えない。
「…ククル」
「はい」
「ありがと。美味しい」
それだけ伝えると、よかったですとまた笑みを向けられる。
甘やかな喜びと、それが落とす影と。
その両方を感じながら、それでもロイヴェインは微笑みを返した。




