三八三年 雨の十二日 ②
食事を終え、少しゆっくりとお茶を飲んでいたところで声をかけられ、ククルとジェットは再び警邏隊の支部に戻る。
応接室で待っていたスタインは開口一番謝罪を口にした。
「申し訳ない。結論から言うと、こちらにも状況がわからない」
すぅっとジェットの眼差しが冷える。
「わからない、とは?」
「あの四人は宿舎の同部屋なんだが、その部屋に私名義の指示書が届いたらしい」
向けられる厳しい視線に動じる様子もなく、スタインは続ける。
「知り合いのライナスの住人から、宿と食堂を中心にギルド員が集まって迷惑していると相談された。まだ通報ではなくあくまで相談で、警邏隊が巡回に来ればすぐギルドに知られるだろうから、時々私服で様子を見に行くように、と」
ますます鋭くなるジェットの眼差し。刺々しくなる空気にククルは膝の上で両手を握りしめる。
「もちろん私にはそんな指示を出した覚えはないし、内密に見回りを頼むこともありえない」
「あの四人はそんな胡散臭い話を鵜呑みにして見回りに来てたと?」
「そういうことになる」
「で、それを信じろと?」
「そうとしか言えない」
物腰が荒くなりつつあるジェットを、一歩も引かずに見返すスタイン。
「気付かなかったことはこちらの落ち度だ。本当に申し訳ない」
再び頭を下げ、改めてジェットとククルを見る。
「そしてできれば、協力を願いたい」
向けられた眼差しに含まれるのは。
「私に雪辱の機会を与えてほしい」
自分の知らぬ間に自分の名を騙られ、預かる隊員たちを使われたことへの怒りだった。
結局ギルドと情報を共有することを条件に、協力を受け入れたジェット。
当面は気付いていない振りをする為に、あの四人には時々私服でライナスに向かわせることになった。
ただの一客として接してくれればいいと言われ、ククルは頷く。
再度の謝罪と共にその場は閉じられ、念の為警邏隊の支部から直接ギルドの支部へと向かうのはやめて帰路についた。
雨が強くなってきたからふたり乗りで帰るとジェットに言われ、そんなに心配しなくても、と思っていたククル。
しかしライナスが近付くにつれ、ねっとりとした不安がまとわりつく。
―――両親が亡くなったのも、この山道、雨の中だった。
蝕む不安に身体が震える。
今、ここで。自分のうしろにいる叔父までも失ってしまうようなことがあるかもしれない。
両親のように、いなくなってしまうかもしれない。
またそんなことになれば、自分は―――。
ジェットがククルの様子に気付いたのは、クライヴたちの事故現場付近だった。
自分の前のククルが馬の揺れではなく震えていることに気付き、息を呑む。
「クゥ! 大丈夫か?」
少し大きめに声をかけると、ククルの身体がびくりと身じろいだ。
「…エト兄さん……?」
「すぐ着く。掴まってろ」
片手でぎゅっとククルを抱き込むと、駄目、と首を振られる。
「お願い、手綱を…」
「わかった。もたれてていいから」
ククルが何を不安に思っているかなど考えるまでもない。両手で手綱を握り直し、できる限りで急ぐ。
身体を預ける程ではないが、それでも自分の存在を確かめるかのように身を寄せるククルに、ジェットは己の浅慮を悔いた。
程なくライナスに到着し、ククルは深い安堵の息を洩らす。
「すまない…」
ククルを馬から降ろしたジェットは、そのまま強く抱きしめた。
「クゥに辛い思いをさせて…本当にすまない……」
「私こそごめんね。もう大丈夫」
ジェットの無事を確かめるように抱きしめ返すククル。
「エト兄さんが無事で、本当によかった…」
あのときの憂いはジェットの声と背に触れる身体にすぐに薄れ、今はわずかに不安が残るだけだ。
大丈夫だと何度も言ったがジェットは譲らず、縦抱きに抱き上げられたまま丘を登る。
見慣れた店と宿の前、ようやく降ろしてもらって店に入った。
ドアベルの音にこちらを見るテオとダリューン。何事もなく戻ってきたのだと強く感じ、ククルはほっと吐息をつく。
「ククル、ジェット……?」
カウンターの中、声をかけようとしたテオの言葉が怪訝そうに途切れる。
「預かる。着替えてこい」
カウンターを出たダリューンがふたりに手を出し、雨避けを預かった。
「ありがとう」
「悪い」
そう言い残し、それぞれ二階の自室へ向かう。部屋に入る前に足を止め、ジェットを見やったククルが微笑む。
「エト兄さんが無事で本当によかった」
「クゥ…」
「早く着替えて、ふたりに休んでもらわないとね」
ぱたりと閉まった扉を見つめ、ジェットはしばらく立ち尽くしていた。
「おかしいよな?」
お湯を沸かしながらのテオの声に、ダリューンは無言で頷く。
帰ってきたククルとジェットの様子がおかしいことに、ふたりはすぐに気付いていた。
雨の中、ミルドレッドからの帰路。
思い当たる理由などひとつしかなく。
自分が行ければよかったと、テオは心中後悔する。
しかし自分ではククル程はっきりと相手の顔を思い出せない。店に来ればわかるが、町ですれ違ってもおそらくわからないだろう。
こういうところも、客の様子を窺うことも、まだまだ自分はククルに遠く及ばない。
徐々に慣れていけばと思っていたのだが、呑気に構えすぎたと今更痛感する。
お茶が淹れ終わる頃に、着替えたククルとジェットが降りてきた。まっすぐカウンター内へ入ろうとするククルをテオが止める。
「濡れたんだから。少し温まってからな」
お茶淹れたから、と少し強引にジェットと並んで座らせた。
「…ごめんね」
「謝る必要ないだろ?」
そう言いお茶と、昨日ククルが作った菓子を出す。
「お疲れ、ククル、ジェット」
もう大丈夫だからと。
そんな思いも込めて労う。
礼を言い、お茶を飲み。少しホッとしたように息をつくふたりの姿に、テオは大丈夫かなと独りごちた。
沁み入る温かさに、ククルは視線を落とす。
いつも通りの店。
テオがいて。今日はジェットとダリューンもいて。
当たり前のように気遣われ、労われ。
お茶の温かさも。気持ちの温かさも。冷えた身体に心地いい。
ぽすんと頭に乗せられた手の感触に視線を上げると、隣のジェットがまだ申し訳なさそうな顔をして頭を撫でる。
自分の代わりに手伝ってくれているダリューンは、優しい眼差しで自分たちを見守ってくれている。
そして正面、視線が合うと瞳を細めて見返すテオの姿に。
自分の日常は何事もなく戻ってきたのだと、改めて感じる。
(よかった…)
己の憂慮が杞憂で済んで。
こうして元通りの日常がここにあって。
自然に込み上げ零れ落ちる涙。
「ククルっ?」
慌てたテオの声に、ただかぶりを振り。
「ありがとう」
嬉しいだけなのだと、呟きに込めた。




