三八三年 祝の三十五日
朝食の客が来るにはまだ少し早い時間から、ロイヴェインは食堂に来ていた。
「ふたりとも結構早くから準備してるんだね」
カウンター席の中央に座ってにこやかに話すロイヴェインとは対照的に、感情の読めない顔で淡々と作業を進めるテオ。
昨日ロイヴェインとふたりで宿に行ってからテオの態度が硬化したことに、ククルも気付いていた。
それとなくテオに尋ねても、別に何も、と返されて終わる。
確かにあからさまな変化はない。しかし確実に、テオとロイヴェインの間に何かがあったのは疑いようもなく。
そして、おそらくそれは自分に関することなのだろう。
自分には、特にいつもと変わりない態度のテオではあるが。
もしかしてあの日のことを知ったのかもしれないと思うと、怖くてそれ以上聞けなかった。
朝食の片付けも終わり、仕込みもある程度進めて。
少し宿へ戻るテオに合わせてロイヴェインも席を立つ。
裏口から出るつもりだったテオは、仕方なく一緒に入口から店を出た。
「言いたいこと。あるなら言えば?」
ククルの前では見せない不機嫌そのものの顔で、テオが低く言い捨てる。
「わかってるなら話が早いね」
こちらも冷えた眼差しで、ロイヴェインが返した。
「ククルは被害者なんだから。追い詰めるなよ?」
呟かれた言葉に明らかな苛立ちがテオの瞳をよぎる。
「…お前が言うのか?」
睨み据え、紡がれる言葉。
「元凶のお前が、それを言うのか?」
「俺だからだよ」
しかしロイヴェインは、込められる殺気を気にもとめず。
冷ややかな声音で、笑みすら見せて。
「俺しか知らないんだから。俺にしか言えないだろ」
「だからって―――」
ロイヴェインの手が動いたのに気付いた直後、喉を掴まれ言葉が途切れる。
「もしお前がこのことでククルを追い詰めたら」
さほど力は入っていない。しかしそれでも引き剥がすことができず。
ロイヴェインの手首を掴み返し、ただ睨むだけのテオ。
「たとえこれ以上泣かせることになっても。ジェットを敵に回しても。俺がククルをもらうから」
ロイヴェインが手を放し、掴むテオを振り払う。
咳き込む程ではないが、それでも乱れた呼吸を整えながら視線を上げると。
返される、覚悟と自負の眼差し。
「もちろん、いずれ受け入れてもらえる自信はあるよ?」
そう言い切り、瞳を細める。
「でも、そんな方法取りたくないから。やらせないでね」
「させてたまるかよ…」
テオの言葉を満足そうに聞き届け、じゃあよろしく、と店に戻るロイヴェイン。
その背を見送ったテオは。
握りしめた己の拳に視線を落とし。
そんなつもりはないんだと、呻きを洩らした。
昼を過ぎ、ゼクスとメイルとノーザンが到着した。
カウンター席でひらひら手を振るロイヴェインに無言で近付き、問答無用で拳骨を落とすゼクス。
「早々にすまんな、ククルちゃん」
「い、いえ…」
「それと、今回アリーは留守番でな」
「さすがにあの髪では紛らわしいからな…」
ノーザンの言葉に、ククルも苦笑しか返せない。
前回、やはり少しいたずらが過ぎたようだ。
「人手が減って申し訳ないが、よろしく頼むよ」
「わかりました」
メイルに頷き、お茶を淹れますねと席を勧めた。
ゼクスたちとの打ち合わせがあるのだろう、今日はおとなしくロイヴェインも帰っていった。
「明日からね」
閉店作業をしながらのククルの言葉に、そうだな、とテオは返す。
今この心境で訓練が始まることに、不安しか感じない。
もし今回もラウルのようにククルに言い寄る輩がいたとして。果たして自分はどこまで冷静に対処できるのだろうか。
「…テオ」
かけられた声に、考え込んでいたことに気付いて顔を上げると、思っていたよりも近くで自分を覗き込むククルと目が合った。
「大丈夫?」
見つめる紫の瞳をまともに見てしまい、跳ねる鼓動にうろたえる。
「だ、大丈夫って…?」
「考え込んでるようだから。どうかしたのかと」
無理しないでねと微笑むククル。
自分に向けられたそれに、ああ、と思う。
やっぱり自分はククルが好きで。
この笑顔を守りたいと。そう思うから。
(…できることは、全部するんだろ…!)
自分で決めたはずのそのことを、やっと思い出す。
今の自分にできることは、諸々呑み込み気取られないこと。
彼女が気にせず笑えるように、知らない振りを貫くこと。
「テオ?」
再び呼ばれた名に、テオは今度こそ笑みを返し。
「何でもないよ」
呟いた。




