三八三年 祝の三十四日 ①
昼をかなり過ぎ。
作業部屋で洗い物をしていたテオはドアベルの音に気付いた。
今から昼食の客というのも珍しいなと思いながら、手を止め店へと出る。
入口に立つのは、見覚えある服と外套姿の人物。目深に被ったフードの下に、赤茶の髪が見えた。
カウンター内で仕込みをしていたククルも手を止めたのだろう。立ち止まるその人の前へと近付いていく。
「予定は明日―――」
ククルが言い終わる前に、前から手が伸ばされる。飛びつくように抱きしめた反動でフードが外れた。
赤茶の髪に翡翠の瞳。やはりアリヴェーラかと思いかけたテオの目に、うろたえるククルの姿が映る。
まさかと思った、その直後。
「ロイっっ! 離して…」
「やっぱりバレてた?」
ぱっとククルを解放し、前回のアリヴェーラと同じ格好のロイヴェインがにっこり笑った。
「せっかくアリーから返してもらってきたのに」
予定より一日早く現れたロイヴェインは、笑んだままテオへと視線を移す。
「今回も、よろしくね?」
瞳に浮かぶ、明らかな宣戦布告に。
息を呑み、拳を握る。
「…こっちこそ。よろしく、ロイ」
ひと休みしてから、と、そのまま店に居着いたロイヴェイン。
カウンター席の真ん中で、満面の笑みでククルを見つめる。
「待ちきれなくて。早く来ちゃった」
「早く来たってすることないだろ」
「あ、そうだ。今度はこれ作ってきたんだ」
ぼそりと呟くテオを見もせずに、荷物から取り出した布包みを差し出した。
「ロイ、もらう理由が…」
「じゃあ抱きついたお詫び」
遠慮するククルに軽く返す。言った瞬間向けられた呆れたような眼差しを、それでも嬉しそうに見返して。
「なんてね。俺が渡したいだけ。受け取って?」
はい、と半ば強引に押し付けられ、困ったような笑みを見せて受け取ったククル。
礼を言いながら開けた中には、掌大の透明ものと、ふた周り程小さな薄紫のガラスの皿。揃いの花を模したそれは、薄紫のほうにだけ少し深さをつけてあった。
「重ねてもバラしても。食器でも置き物でも。好きに使って」
皿を見つめるククルの表情に、安堵と喜びを覗かせて。
「気に入ってもらえたならよかった」
嬉しそうに、ロイヴェインは呟いた。
片付けも済み、仕込みも大丈夫だとククルに言われ、宿に戻らざるを得なくなったテオ。
今までの一歩引いた態度ではなくなったロイヴェインとククルをふたりきりにすることに、ものすごく抵抗があったのだが。
こればかりは仕方ないと息をつき、エプロンを外す。
「ちょっと行ってくる。すぐ戻るから」
「大丈夫だってば」
苦々しい顔付きでそのやりとりを見ていたロイヴェインが、じゃあ、と立ち上がった。
「俺も荷物置いてこようかな」
どうしてわざわざ、と思いながら。
同時に店を出ることになったテオは、店を出るなり訝しげにロイヴェインを見る。
「何?」
「こっちの台詞だって」
向けられた愉悦の笑みにそう返すと、笑みはそのまま、眼光が鋭くなった。
「ククルに好きだって言ったから」
瞠目するテオを見据えたその瞳から、次第に笑みが消える。
「もう遠慮しないよ」
言い切る強い声。
驚きと納得半々に、テオは軽く息をつきロイヴェインを睨む。
「遠慮は俺に? それともククルに?」
「両方、かな」
瞬間、テオがロイヴェインの胸倉を掴んだ。
驚きもしていないその顔に、されるとわかっていて掴まれたのだと知り、ますます苛立ちが募る。
「あのとき何をしたのかは知らないけどっ! あんな悩ますようなマネだけは二度とすんなっっ」
あのときがいつを指すのかを、ロイヴェインは聞き返してこなかった。
ぱんっと手を払い上げ、半歩距離を取るロイヴェイン。
「しないよ」
静かな声音に潜むのは。
「もう泣かせないって、決めたんだ」
拭いきれない後悔と、新たな覚悟。
―――しかし、問題はそこではない。
ぐっと、テオが拳を握りしめる。
「…泣かせた、のか?」
急激に冷えていくような感覚の中。
ぽつりとテオが問いかけた。
「…ククルが泣くようなことを、お前がしたのか?」
目の前のテオに低く問われ。
ロイヴェインはただ事実を告げる。
「した」
返答と同時に殴りかかったテオの拳を受け止め、続く左拳も払い落とし、掴んだままの右手をうしろに捻る。
「ロイっっ!!」
「もうジェットに殴られておいたから。テオにまで殴られるつもりはないよ」
トン、と突き飛ばす。
「俺だって後悔してる」
「お前のことはどうだっていいんだよっ!」
振り返って怒鳴るテオに、だろうね、と苦笑して。
「ククルと俺の間じゃもう忘れたことなんだ。蒸し返すなよ?」
「泣くようなことをっ! 忘れられるわけないだろうがっ」
投げつけられた言葉に、ロイヴェインの笑みが自嘲に変わる。
「そんなこと。俺が一番わかってるよ」
苛立ちを隠しきれないまま、テオは裏口から宿へと入る。
クライヴたちの事故現場に行ったあの日。何かあったとは思っていたのだが。
(泣いてたなんて気付かなかった…)
自分たちが戻ったときには、考え込む様子こそ見せていたが、泣いていた素振りなど欠片もなかった。
ククルは人のことでは泣くが、自分のこととなると我慢するのかあまり泣かない。
そのククルが泣いたというなら、彼女にとってどれだけのことがあったのか。
気付かなかった自分が情けない。
そして、同時に。
(…何で……話してくれないんだよ…)
話してもらえなかったことに、落胆する。
人のしたことを告げ口するような真似をする彼女ではない。
しかし、泣く程のことがあった事実くらいは話してくれてもいいのではないか、と。
そう思うのは、過ぎた願いなのだろうか。
(…そんなに俺は頼りない?)
心中の問いに答えるものはもちろんおらず。
沈む気持ちに溜息をつき、テオは宿での仕事に手をつけた。




