三八三年 祝の十三日 ①
朝、テオはいつものように裏口から食堂に入る。
「おはよう、テオ」
「おはよう」
既に作業を始めているククルに挨拶を返し、身支度をする。
アリヴェーラには準備は手伝わなくていいと言っている。朝のこの時間だけが、ククルとふたりでいられる時間だった。
隣に立ち、ククルの進み具合から自分が何をするかを決める。
―――昨日のラウルの話。
まさか七年も遡られるとは思わなかったが、自分にしてみればそれで怯むはずもなく。
想う長さなど何の利にもならないということは、自分が一番身を以て知っている。
しかし。
知り合ってもない相手をそれだけの間想い続けたラウル。本人と言葉を交わせるようになった今、彼の気持ちがどれほど高揚しているのかは、推測しても余りある程だろう。
そして、期限のある身ゆえ待つこともなく。一度諦めた覚えがあるからだろうか、引くことをしない。
自分だって想いの強さは誰にも負けない。しかし、自分はククルにあれだけの熱量をぶつけることはできない。
彼女が困るのが、わかっているから―――。
「ねぇテオ」
「ん?」
そう応えてから、珍しくククルが手を止めてこちらを見ているのに気付いた。
テオも手を止め、ククルを見返す。
「どうした?」
「やっぱり訓練、参加したら?」
まっすぐ見据え、ククルが告げた。
「私なら大丈夫。アリーもいるし、皆訓練に行ってるんだし、ね」
昨日の話から、自分の危惧の半分はわかってくれたようだが。
残る半分にはおそらく気が付いていないままなのだろう。尤もこちらも訓練は見に来るので大丈夫なのかもしれないが。
「テオ、いつも私のことばかり優先してくれるものね。たまにはテオのやりたいことをすればいいのよ」
「それは―――」
ククルが、と続けかけ、呑み込む。
息をつき、代わりに微笑んだ。
「…ワガママ言っていいんだ?」
「こんなのわがままに入らないでしょ」
くすくす笑うククル。
込み上げる嬉しさと、どうしようもないもどかしさを。
「ありがと。そうする」
静かな声音に包み隠して、礼を言った。
揃って朝食の準備を再開する。
隣のテオをちらりと見、ククルは内心ほっと息をついた。
もう少し説得に時間がかかるかと思っていたのだが、存外素直に提案を受け入れてもらえた。
いつも周りのことばかりで、テオ自身のことは後回し。そんな彼が、久し振りに見せた望み。どうにかして叶えたかった。
テオが色々気遣ってくれているのはわかっている。
自分の為に、店の為に。色々無理をさせているのも知っている。
しかしここでのテオは、何でもないような顔をして隣にいてくれる。
それがどれだけ心強く、自分を支えてくれているのか。
頼ってばかりの自分だからこそ。少しでも彼の為に、できることをしたかった。
双方無言で、ただ準備をするだけではあるのだが。
それは、訓練期間中であることを忘れるような、久し振りの穏やかな時間だった。
「おはよ」
二階から降りてきたアリヴェーラがにっこり笑って挨拶をする。
「おはよう」
「おはよう、アリー。早く来てくれたの?」
挨拶を返すふたりに、アリヴェーラは肩をすくめる。
「お客さんが来たみたいだから」
ふたりが尋ね返すより早く、店の扉が開いた。
「おはよう、ククルさん。皆さん」
満面の笑みのラウルと、苦笑するニースが入ってきた。
「早くからすまない…」
「おはようございます。大丈夫ですよ」
困り顔のニースにそう返し、ククルはラウルを見る。
「おはようございます。少しお待たせするかもしれませんが…」
「むしろ待たせてほしくて早く来たんだ。その間に話せたらと思って」
そう答えてカウンター席中央、ククルの真正面に座る。
「いいかな?」
にこにこと自分を見るラウルを少し驚いたように見返すククル。
「こっちやっとく」
短いテオの言葉に頷いて、ククルは準備しますね、と返した。
朝食を準備する傍らのラウルとの会話は、本当に他愛のないもので。
日々の暮らし、好きなもの、とりとめもなく話し、尋ねるラウルに答えていく。
時折アリヴェーラが口を出す中、出来上がった朝食をふたりの前に出した。
「…ククルさん」
置かれたトレイに礼を言ってから、ラウルがまっすぐククルを見上げる。
「今も、ここが好き?」
「もちろんですよ」
驚きも迷いもしないククルの返答。
隣のテオがふっと表情を和らげたことには気付かず、ククルは微笑む。
「今でもずっと、私の大切な場所です」
幸せそうなその笑みに、同じく微笑み返すラウル。
「それならよかった」
ほんのひと握り、込められた羨望が向けられた先を。
本人たちは、気付かぬままに。
訓練生たちと入れ替わりに店に来たロイヴェイン。
早い時間にラウルたちが宿を出たことには気付いていたが、ニースが一緒なので黙認した。
相変わらずの嘲り顔のアリヴェーラはともかく、ククルもテオも穏やかな表情で迎えてくれたのを見て、何事もなかったかと安堵する。
ゼクスたちとウィケットで四人になるので、ロイヴェインはひとりカウンター席に座った。
準備しますね、と微笑むククル。
昨日のラウルの話を聞き、ククルは一体どう思ったのだろうかと。
聞けはしない問いを胸に、ロイヴェインは頷く。
ラウルの話が本当ならば。
ここへ来た回数も、初対面だということも、踏み越える程の想いがラウルの中にあったということなのだろう。
想う気持ちで負けはしないと思うのだが、取った行動には雲泥の差があることも確かで。
アリヴェーラが呆れるのも当然だ。
胸を張って言えるように、だなんて。
ただの逃げだと、今はわかっている。
無意識に拒絶される程傷付けた自分だから。あのときの諦めに近い絶望が忘れられないから。
だから、伸ばした手をまた拒絶されるのが怖くてたまらないだけなのだ。
「ロイ?」
声をかけられ、うつむいて拳を握りしめていた自分に気付く。
はっと顔を上げると、心配そうに覗き込むククルと目が合った。
「どうかしましたか?」
「大丈夫。何でもないよ」
答えた途端、そのままの表情でククルが息をつく。
「ロイ。大丈夫じゃわかりませんよ」
言い含めるような、優しい声音に。
レザンへの馬車の中、ククルに言われたことを思い出す。
覚えてくれたんだということと、こどもを叱るように言われたことに。
嬉しさと気恥ずかしさを覚えながら、拳を解いた。
「そうだったね」
「そうですよ」
よほど思い詰めた顔をしていたのだろうか、ようやく少し安心したようにククルが返す。
「それで、どうしましたか?」
もう一度問うククルに、今度はちゃんと微笑むロイヴェイン。
「訓練のこと考えてたんだ。疲れたとかじゃないから心配しないで」
前回ジェットにわざと殴られて動けなくなったのを疲れたからだと言い張ったこともあり、ククルは心配してくれているのだろう。
そうでしたかと返すククル。向けられる安堵が少し照れくさい。
「…そういえば。前のスープ、今回メニューに入らないの?」
ごまかすようにそう聞くと、少し考えるような素振りのあと。
「全員分は材料が足りませんが、ロイの分だけなら今日の夕食に出せますよ?」
「俺の分だけって…」
さらりと言われ、ロイヴェインは驚いて呟く。
「皆さん夜食を食べてますし。いいかと思うんですけど」
「そうじゃなくて。ククルが手間じゃないの?」
慌てた声に、今度はククルがきょとんと見返して。
「ここは食堂ですから」
当たり前のように返され、言葉が出ないロイヴェイン。
ククルの隣、テオは顔を背け。
テーブル席の四人は無言でうつむき。
アリヴェーラは満面の笑みで、ククルを抱きしめた。




