三八三年 祝の十二日 ①
前回の訓練時と同様、まずは訓練生たちの朝食、続いてゼクスたち教官と見学者の食事となる。基本訓練は見ずに書類仕事と町との調整役のウィルバートは、さらにそのあと、比較的自由な時間に食事を取っていた。
訓練生が戻ってきたことに気付き、ロイヴェインはゼクスたちと食堂へ向かう。
昨日、お茶を持ってきたアリヴェーラにあとで話があると言われていたが、結局詳細を聞いたのは夜になってからだった。
顔合わせのときはアリヴェーラが自分の振りをしてウィルバートたちをからかったことに腹を立てていたので、ククルのことを見ている男がいることには気付いていたものの、そこまで警戒していなかった。
それがまさか。ククルに名乗るなり『好きです』と告げていたとは思いもせずに。
ふざけるな、と思った。
妬ましいと同時に、自分が言えないその言葉をそんなに簡単に言うことのできたその男が、羨ましくてたまらなくて。
自分はまだ胸を張って言えないのに。
目の前にいても、手も伸ばせないのに。
どうして昨日今日来たばっかりの奴が、そんなことを言えるのかと。
身を焦がす嫉妬と、心を凍てつかせる己への落胆と。
このままではと、思うのに。
まだ、自分は動けない。
そして、動けない自分にまた、落胆する。
遊ぶのをやめても。訓練に身を入れても。仕事に打ち込んでも。
彼女を目の前にすると、どうしても動けなくて。
もう二度と、あんな顔をさせたくなくて。
あと何をどうすれば、自分は胸を張れるのだろう?
あとどれだけ自問を繰り返せば、自分は答えを得られるのだろう?
わからないまま、またここへ来て。
また、わからないまま帰るのか―――?
心中の嘆息を呑み込み、握りしめていた拳を開く。
食堂の入口。中にいることはわかっていた。
カランと鳴るドアベル。
「おはようございます」
「…おはようございます」
カウンター内、微笑んだククルと、気持ち声の沈んだテオが挨拶する。
「おはよ」
笑みを見せてそう返してから、ロイヴェインはテーブル席に座るふたりを見た。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
立ち上がって頭を下げるラウルに。
縊り殺してやろうかと思いながら、冷えた笑みを返す。
「こちらこそよろしくお願いします。よかったら参加してください」
「いえ、僕、全然動けないので。きっとついていけないです」
へらりと笑うラウルに思わず舌打ちをし、うしろからゼクスに小突かれた。
苦笑し合うゼクスとニース。メイルがロイヴェインをラウルと背中合わせになるよう座らせる。
「ククルちゃん、アリーが邪魔になるなら言うんだぞ?」
ノーザンの言葉に、ククルは笑って首を振る。
「邪魔だなんて。アリーがいてくれて助かってますよ」
「聞こえてるわよ?」
奥の作業部屋で洗い物をしていたアリヴェーラが顔を出した。
「私はね、ククルとテオがいない食堂も乗り切ったのよ? 仕事振りを疑うならアレックさんに聞いてみてよ」
「わかったわかった」
わざわざ出てきて詰め寄るアリヴェーラにノーザンが笑う。
んもぅ、とわざとらしくぼやいたアリヴェーラがロイヴェインを見下ろす眼差しは、初日に向けられたものと同じで。
やはり同じく見返すことしかできないロイヴェインに、次第に嫌悪に近い色が混ざる。
「この愚弟」
ぽそりと呟き、アリヴェーラは作業部屋へ戻った。
訓練の開始を待ってから、ウィルバートは朝食に向かう。
本当はもっと早く来ることもできたのだが、ラウルがいないとわかっている時間に行きたかった。
昨日ククルからお茶を渡されたあとに、フェイトが駆け込んできた。
知らなかったんだと落ち込んだ様子のフェイトから何があったのか聞いて、耳を疑った。
初対面の名乗りと同時に訓練生の面前で好きだと大声で告げるなど、どう考えても正気の沙汰ではない。
フェイトを帰し、ラウル本人に話を聞きに行くと。悪びれぬ顔で、何か問題でも、と返された。
大勢の前で彼女を辱めるような行為は『住人に手を出した』ことに当たるだろうと言っても、自分の素直な気持ちを伝えることがどうして辱めることになるのかと譲らない。
結局ニースに止められ、ギルド員たちがジェットの関係者がいないところでどんなことを言っているのかを聞き、その抑制の為もあったと言われたが。
もちろん納得できるわけもなく。
そして同時に、ラウルの言葉はその為だけでもなく。
尤もニースも手段には問題があると言い、その点に関しては夕食の席で謝罪させると約束してくれた。
そして言葉通り、教官四人と自分、そしてククルたち食堂の三人の前で、騒がせたことと衆目の前で告げたことだけは謝罪したラウル。
もちろんククルがそれを受け入れぬはずもなく。
もういいですと言った彼女にこともあろうか返事を迫り、ニースに組み伏せられていた。
フェイトの兄弟子だということはさておき、見学者という曖昧な立場ゆえ強くも言えず。
そして仕事でここへ来ている自分が、彼女に近付くな、などと言えるわけもなく。
食堂にいつもより人手があることだけは幸いだが、それでも。
溜息をつき、入口の扉に手をかける。
まだ訓練初日。先の苦労が思いやられた。
食堂に入ると、カウンターの中、穏やかな表情のククルがいた。
「おはようございます。遅くなってすみません」
アリヴェーラがいるので口調も崩せないのがもどかしい。
「おはようございます。大丈夫ですよ」
準備しますね、と微笑まれる。
「…あの、朝は何も困るようなことはありませんでしたか?」
中央のカウンター席に座って尋ねると、そのままの笑顔でククルは頷いた。
「はい。皆さんに残さず食べてもらえました」
隣で仕込みをするテオが溜息をつく。
「何もなかったよ」
代わりに答えてくれたテオに苦笑を返し、ウィルバートはとりあえずの安堵と警戒心のなさすぎるククルへの不安を感じていた。
自分が奴にどういう目で見られているのか、本当に彼女はわかっているのだろうか?
やがて出された食事を取りながら、仕込み作業に戻るククルを眺める。
昨日もラウルの謝罪に対し、迷いもせずに許していた。もちろんらしいとは思うのだが、それが相手をつけあがらせるということを全くわかっていない。
ニースがすぐに止めたせいで、ククルが告白の返事をすることもなかった。ククルが受けるとも思わないので、いっそのこと返事ができていればラウルも諦めたかもしれない。
(…今更、か)
今となっては仕方ない。考えるべきは、どうやってこの訓練期間を乗り切るか、だ。
仕事で来てさえいなければ、もっと言える言葉も取れる態度もあるというのに。
視線に気付いてこちらを見たククルに笑みを返し。
ラウルの動向、そしてギルド員たちの様子にも、気を付けなければとウィルバートは思った。
全員の朝食を終え、引き続き昼食分の仕込みを進める。
「今回も、エト兄さんが来てから訓練に出るの?」
作業しながらのククルの言葉に、手を止めずにテオは軽く首を振った。
「今回はやめとく。前回疲れてるだの何だの言われたし」
既に決めていたので迷いなく返す。
本当はここを離れるのが心配だからなのだが、素直にそれを告げる気はなかった。
「そうなの?」
同じく手は止めず、顔も向けず、ククルが返す。
「ここはアリーがいるし、宿はソージュがいるんでしょ? 十分行けると思うんだけど」
「それはそうだけど」
「カートと、フェイトさんと。一緒に訓練したいんじゃない?」
「それもそうだけど」
見透かされている己の気持ちにテオは苦笑う。
ククルはこういった機微には聡いのだ。
しかし。
「…まぁ、考えとくよ」
自分が何を心配してここを離れたくないのか。それについては考えが及ばないようで。
自分の目の前で告白し、自分の目の前で返事を迫り。
結局はうやむやになりはしたが、そうできるラウルに正直嫉妬もある。
自分はあのとき、ククルに答えを強いることはできなかった。
聞き流していいと言うしかなかった。
だから聞けない。
自分はこのまま、待っていていいのか。
まだ、返事はなくていい。
でも、待っていてもいいのかと。
時折申し訳なさそうに自分とウィルバートを見る彼女に、自分の想いは負担ではないのかと―――。
「わかった。遠慮しないでね」
続けられた言葉に、瞳を細め。
テオはククルの顔を見られないまま、ありがとうと返した。
「どうしたの?」
宿のほうも見てくると言って、テオが店を出た間に。
アリヴェーラがククルを覗き込む。
「何か気にしてる?」
「アリー」
微笑むアリヴェーラに、ククルは珍しく自嘲を見せた。
ふっと笑みを深くし、アリヴェーラは手を伸ばす。
「もぅ。ククル、かわいいんだから」
ぎゅっと抱きしめ、頭を撫でる。
「ホント。男共に渡すのはもったいないわね」
「何言ってるの」
くすりと笑い、ククルは抱擁から抜け出した。
「で、ククルは何を考え込んでるの?」
白状しなさい、と詰め寄るアリヴェーラに、ククルは笑みを浮かべたまま、何でもないと首を振る。
アリヴェーラは笑い、じゃあ独り言ね、とククルから視線を逸らす。
「いいのよ。好きなのは向こうの勝手なんだから。言わせておけば」
一瞬ククルの手が止まったことには気付かぬ振りのまま、小鍋で水を火にかける。
「言うのが向こうの勝手なら、答えないのはこちらの勝手。お互い様なんだから、文句を言われることじゃないわ」
ふふっと笑う。
「ククルは優しいから。伸ばされた手は取らないといけないと感じるのかもしれないけど」
完全にククルの手は止まってしまっていたが、アリヴェーラは見ないままお茶の準備を始める。
「でも、あなたから手を伸ばせるのはひとりだけでしょう? だから慌てなくていいのよ」
沸いたお湯に直接茶葉を入れ、しばらく待って牛乳も入れる。
「待たせておけばいいの。あなたのことを想うなら、相手はきっと待ってくれる。待てない理由があるのなら、ちゃんと話してくれるわ」
火から下ろし、漉しながらふたつのカップに注ぐ。
「甘い物、今はおあずけだから。付き合って」
香りだけでもふわりと甘いそれを、ひとつ、ククルの前に置いて。
「蜂蜜? お砂糖?」
微笑むアリヴェーラをようやく見て、ククルは瞳を細めた。
「蜂蜜で」




