三八三年 明の四十日
夕刻前、まだ客が来始める前の食堂。ククルがひとりこれからの準備をしていると、不意にカランとドアベルが鳴る。
「久し振り」
「ウィル」
和らぐ日差しにも青く透ける黒髪の青年は、呼ばれた名に紺色の瞳を嬉しそうに細める。
「やっと来れた」
あさってまでの滞在を告げ、ウィルバートは宿へと向かった。
ここへ来る前に、ミルドレッドで肉加工品の業者、そしてアルドのところで謝罪と礼を告げてきた。
業者には良い取引をと言われ、アルドにはこれからも世話になるだろうからと言われた。
双方共に、自分が直接関わることではないというのに。それでも謝罪も礼も受け入れて、この先もと言ってくれた。
ありがたいと思う気持ちと。
いいのだろうかと思う気持ちが入り混じる。
自分はまだ、ジェットやククルのようにはなれなかった。
宿の入口の前で立ち止まる。
礼を言わねばならない最後のひとりはこの先にいる。
自分にとっては一二を争う素直になりたくない相手で。
相手からすれば、自分は素直になられても困るであろう存在。
そんな相手に、それでも、述べたい礼があった。
宿に入り、受付にいたレムに所在を聞くよりも早く。奥から姿を現した少年が自分を見つけて足を止めた。
「ちょうどいいところに」
そう言うと、テオはあからさまに溜息をついた。
「レム、ウィルの部屋」
手を差し出すテオに、レムが慌てて鍵を渡す。
渡された鍵を手に、無言で二階へ向かうテオ。レムに会釈してからウィルバートもあとを追った。
部屋の前で振り返ったテオが鍵を投げよこす。
「で?」
鍵を受け取り、短いひとことに苦笑する。
「改めて礼を」
「あのとき聞いたからもういい」
予想通りの態度に内心笑う。
そう。間違いなくこの少年は自分の礼など突っぱねるのだ。
「あれは中央に来たことに対して、だ。関わってくれた皆のおかげで村は無事だったんだ。それに」
ここまで来ると半分意地のようなものだが。
「この先の協力関係の為にも。言わせてもらう」
「いらない。俺もお前もククルの味方で、ククルの為に協力する。それでいいだろ」
テオの口から出た言葉に、ウィルバートは軽い衝撃を受けた。
(ククルの味方…?)
ジェットからは、テオもロイもククルに頼まれたからではなく、自分の為にだと言われていた。
だから自分はちゃんと礼を返すべきだと思い、テオの前に立っている。
しかし、テオもこの通りの態度で。
もうひとり―――ロイヴェインも、礼は言ったが正直自分の為に動いてくれたとは思えなくて。
その較差に戸惑っていたのだが。
今のテオの言葉で、少しわかった。
自分たち三人の関係。その中で、自分はどう在ればいいのか。
「…そうか、それでいいのか」
ひとりそう呟き、ウィルバートはテオを見た。
思い詰めた様子で礼を言いたいと言われ、いらないと言っても聞き入れてもらえず。
本当に、とテオは思う。
こういうところがこの間の騒動になったんだろうがと、内心ぼやく。
(礼ならもう受けた。村も無事。ならもうそれでいいだろ…)
どこまでも融通が利かない青年は、こちらが告げた言葉に何か感じるものがあったらしい。どこか納得した顔でそれならと呟き、不意に顔を上げた。
「ありがとう、テオ。これで何とかあいつともやっていけそうだ」
結局さらりと礼を述べ、ウィルは頷く。
突然の変わりように呆気にとられてウィルバートを見てから、テオは大きく嘆息する。
今の言葉で何がどう吹っ切れたのか。
自分にはわからないが、それでも。
「もういいなら、俺行くから」
気が済んだならいいかと思い、歩き出す。
「テオ」
すれ違う直前。名を呼ばれて足を止めた。
「村のことも。ありがとう」
礼を言うには含みのある声と、少し上がった口角に。彼がすっかり調子を取り戻したらしいと知る。
「ホントにウィルは強情だな…」
それでも礼を言うウィルバートに渋面で零し、テオはそのまま通り過ぎた。
カウンター席の右端、いつもの席に着いたウィルバート。
店番の礼を言うククルに少し遅くなったことを謝ると、大丈夫ですよと微笑まれた。
前回ここに座って話をしたのは、町に訓練の協力を願いに来たとき。訓練中はほとんどゆっくり話せなかった。
久し振りの穏やかな時間に、自然と笑みが浮かぶ。
レザン村で菓子を作る様子を眺めているのも幸せだったが、やはりここにいるククルは生き生きとして見飽きない。
またここに来られた喜びを噛みしめながら、しばらくククルを眺めていた。
「そういえば、ククル。レザンからの手紙に、すごく世話になったって書いてあった」
ありがとうと告げると、笑みを返される。
「ここにも来ました。喜んでもらえてよかった」
カレアと一緒に菓子を作ったと、楽しそうにククルが話す。
「レシピは渡してあるから、次からはレザンでもパウンドケーキが出されるわね」
自分の好物だと思っている彼女の言葉に、いつかの遠回しな告白を思い出す。
あの程度の言葉では彼女が気付くわけもないと、今ならわかる。
だから、これもおそらく。
「俺はククルのほうが好きなんだけど」
微笑んで告げたウィルバートに。
案の定、味は変わりませんよとククルは笑った。




