三八三年 明の二十五日 ①
一晩泊めてもらったベリアの加工肉業者の建物にロイヴェインが来たのは、朝をかなり過ぎてからだった。
「皆、無事だよ」
顔を見るなりそう報告するロイヴェインにククルはほっと息をつき、よかったと呟く。
「警邏隊呼ばないとなんだ。説明してくる間に出る用意しといて?」
そう言い残し再び出ていくロイヴェインを見送り、出立の用意をする。世話になった業者の者たちに礼を言い、ゼクスと共に表で待つことしばらく。
おまたせ、と馬車でやってきたロイヴェインが御者台から声をかけた。
見上げたゼクスが溜息をつき、うしろへ行けと顎で示す。
「儂がやる。お前は少し休め」
「平気だって」
「どうせロクに寝ずに来たんだろう。ほら、ククルちゃんを上げてやれ」
「じぃちゃん!」
困惑混じりの声を上げるロイヴェイン。
自分で上がれますよと馬車に乗り込もうとするククルに、あぁもう、と呟き、うしろに移って手を差し出す。
その間にさっさと御者台に収まったゼクスが振り返った。
「ではレザンに向かおうか。ククルちゃん、ロイを頼むよ」
「わかりました。お願いしますね」
ロイヴェインの手を借りて乗り込んだククルが微笑んで頷く。
「どうすんだよ…」
微笑むククルと貸した手とを見比べ、ロイヴェインは吐息をついた。
走り出した馬車の中。幌に沿って作り付けられた座席に向かい合わせで座るが、小さな馬車なのでそれでも近い。
ちらりと視線を上げると、気付いたククルに微笑まれた。
「お疲れ様でした」
「ククルも、お疲れ」
自然なその笑みに、気負っていた自分が恥ずかしくなる。そっと息をつき、ロイヴェインはククルを見つめた。
今回ククルがセレスティアに来ることになって、実は不安もあった。
セレスティアでの自分の評判は決していいとはいえない。今は大人しくしていても、いつククルの耳に入るかもしれなかった。
尤もククルにはそれなりの態度を取っていたので、聞かれたところでやっぱりと思われるだけなのかもしれないが。
あまり見ていたので何か言おうとしていると取られたのか、言葉を待つように少し首を傾げるククル。その様子にどきりとし、心中うろたえながら慌てて言葉を探す。
「えっと、またしばらく馬車だけど大丈夫?」
「大丈夫ですよ。ロイこそ休むよう言われていたじゃないですか」
「平気。ありがと」
寝ていてもいいと言われるが、大丈夫だと言い張る。
もったいなくて寝てられない。
そう独りごち、ロイヴェインは瞳を細める。
「これで十分休めてるからさ。ちょっと話してもいい?」
もちろんですと頷くククルと。
「じぃちゃんも聞こえる? 今の間に向こうでのこと話すからね」
振り向かず、返事代わりに片手を上げるゼクス。
ふたりに向け、ロイヴェインはレザンであったことを話し始めた。
レザンでのことを話し終えたあと、眠くないからと言うロイヴェインからそのまま話し相手を頼まれたククル。
目の前のロイヴェインにはさほど疲れも見えないが、夜明け前にレザンを出てきたのは間違いなく。
少し心配で様子を窺っていると、どうかした、と尋ねられる。
「いえ、疲れてないのかと思って…」
「大丈夫。座ってるだけだし、体力もあるほうだからね」
瞳を細め、柔和に笑う。
その顔を見て、ククルは以前のロイヴェインの言葉を思い出した。
(こういうこと、だったのね…)
「…今わかりました」
唐突な言葉にきょとんとロイヴェインが見返す。
「ククル?」
「ロイ、私に言いましたよね? 大丈夫ってばっかり言ってると、聞いてるほうは心配になるからって」
少し考えるような仕草を見せて、確かにと頷くロイヴェインを。
まっすぐ見据え、ククルは言い切る。
「ロイだってさっきから、平気、大丈夫って、言ってばかりです」
重ねる程に真実味を失うその言葉。
ようやく何が心配になるのかがわかった。
何に驚いているのか、ロイヴェインが瞠目して動きを止める。しばらくククルを見つめ、口を開きかけ、やめる。
心中の葛藤を映すようなその行動に、ククルは少し表情を崩した。
「…私も同じなので、大丈夫って言ってしまう気持ちもわかります。でも、心配だってこともわかりました」
自分を見るロイヴェインに。
そして、これからの自分に。
できることが、ひとつある。
「だから、どうしたいのか教えて下さい。大丈夫だから、じゃなくて。ちゃんと理由を」
大きく揺らぐ翡翠の瞳。隠しきれない戸惑いが透けて見えるが、気付かない振りをする。
「私も、気をつけてみますから。ね?」
穏やかな声でそう告げられて。
観念したように、ロイヴェインは息をついて視線を落とした。
「…全然疲れてないわけじゃない、けどさ」
溜息混じりに呟いて、顔を上げる。
「今は寝るより…ククルと話してたいんだ」
いいかな、と尋ねられ。
「もちろんですよ」
微笑んで、ククルは答えた。
「あー…。あれ、アリーのことだよ」
ロイヴェインは誰の『大丈夫』という言葉を聞いてきたのか。
そう尋ねると、意外な人物の名が出た。
「アリー、ですか…?」
ククルから見たアリヴェーラは、自信に溢れ、言いたいことは言う女性なのだが。
怪訝な顔をするククルに、ロイヴェインは笑う。
「昔の…ちょうど男女の差が出始めた頃かな。それまではアリーのほうが何でもよくできたんだけど、体力とか筋力とか、やっぱり差がついてきてさ」
懐かしむように伏せられた瞳が、少しだけ翳る。
「俺と同じことできなくなって。でもボロボロになってもやめないアリーに、よく言われた」
「そう、だったんですか…」
負けず嫌いな性格には気付いていたが、どうやら筋金入りのようだ。
「話したのバレたら怒られるから、内緒でね」
「わかりました」
ふたりで顔を見合わせて。
どちらからともなく、笑った。




