三八三年 明の十七日
朝早く。食堂の前に、ククル、テオ、レム、そしてアリヴェーラの姿があった。
「見てもらうのが一番だと思うのよね」
髪を結い上げたアリヴェーラは、笑ってテオを手招きする。
「お相手、お願いするわ」
一瞬驚いてアリヴェーラを見返したテオが、苦笑して息をつく。
「自分の身の程はわきまえてるつもりだけど。アリーなら父さんとでも互角なんじゃないか?」
「アレックさんは無理よ。さすがに敵わないわ」
ふたりの会話についていけず、ククルとレムは顔を見合わせる。
「だからテオ、お願い。怪我はさせないから」
微笑むアリヴェーラに、テオは仕方なさそうに嘆息した。
「わかった。頼むよ?」
呟くと同時に走り出すテオ。口角を上げ、アリヴェーラも駆け出した。
ぶつかる寸前に踏み込み、拳を握るテオ。強いといっても相手は女性、どこを狙えばいいのかと一瞬躊躇した隙に容赦なく肩を蹴り飛ばされる。
吹っ飛ばされる上半身を起こし、数歩分下がった程度で何とか踏み止まった。アリヴェーラの追撃がないので、距離はそのまま体勢を低く取る。
「だから。怪我はさせないって言ってるでしょ?」
見下ろす愉悦混じりの翡翠の瞳は、まさにロイヴェインのそれで。
「…訓練を思い出すよ」
溜息半分、切り替え半分。
息を吐き、テオは再び駆け出した。
はらはらしながらふたりの手合わせを見守るククル。
どちらがどうなど、ククルにはわからない。ただふたりとも怪我のないようにと願うだけだ。
ふたりしてどこか楽しそうに打ち合ったあと、どちらからともなく距離を取る。
「じゃあ最後に。テオ、思いっきり向かってきて?」
何も応えずテオが動き出す。棒立ちにも見えるアリヴェーラが、向かうテオの拳に手を添えて、導くようにすっと動かした。
刹那、がくりとテオの体勢が崩れる。
「えっ?」
小さな呟きと共に、テオの身体が地面に伏せた。
「テオっ!」
「お兄ちゃん?」
ククルとレムの声が重なる。
呆然と見上げるテオに、ふふっと笑うアリヴェーラ。
「さすがに力じゃ敵わなくなったけど、愚弟に負けるのだけは嫌じゃない? だから、方法を変えたのよ」
そう言いながら差し出された手を借り、テオは立ち上がった。
「なんか変な感じだったな」
首を傾げながら考えるテオに、怪我などはなさそうで。
ほっと胸を撫で下ろすククル。隣のレムも安心したような表情だ。
ふたりの様子に気付き、大丈夫よと微笑むアリヴェーラ。
「ふたりもやってみない?」
笑みがいたずらっぽいそれになる。
「今なら特別講師がここにいるわよ?」
「やりたい!」
はいっと手を上げるレムに笑い、テオはククルの肩をポンと叩いた。
「ククルも。店の準備は先に俺がしとくから」
前のように自分が狙われることはもうないだろうが。
そうは思ったが、心配してくれているのだろう幼馴染に頷き、にっこり笑うアリヴェーラに向けてお願いしますとククルも告げた。
先に店に戻ったテオ。朝の営業の準備を始めながら、ひとり苦笑する。
敵わないとはわかっていたが。あれだけ見事にあしらわれると立つ瀬がない。
年始にジェットとダリューンもほめてはくれたのだが、やはり一般人としては、との前置きがつくのだろう。
いざというときにという気負いはあるが、やはり自分では力不足だ。
(…ホント、情けないな)
鍛えても使える程にはならず、料理も未だククルには追いつけない。
何もかも中途半端な自分。
洩れる溜息が重くのしかかる。
それでも、彼女を守る為に。
かぶりを振り、少し笑みを見せて。
まずは目の前の作業を進めることにした。
ふたりに必要なのは逃げることだろうからと、アリヴェーラは『掴まれたときの逃げ方』を教えてくれた。滞在中、ほかにもいくつか教えてくれるそうだ。
咄嗟に使えるかはともかく、教わること自体はとても楽しかった。
アリヴェーラと共に店に戻ると、あらかた準備は済んでいた。
「ありがとう、テオ。手伝うわ」
「ん。じゃあそっちお願い」
手を洗いエプロンをつけるククルにテオが返す。
着替えてくる、とアリヴェーラは二階へ上がった。
「どうだった?」
手を止めずに尋ねるテオ。
「楽しかったわよ?」
くすりとククルが笑う。自分以上に楽しんでいたレムが、そのうちテオにやってみようと言っていたことは黙っておいた。
借りている部屋に戻ったアリヴェーラは、とりあえず上手くいったと笑みを見せる。
ふたりに咄嗟の逃げ方を教えてほしいと祖父から頼まれていた。
確実に英雄の弱点となるあのふたり。四六時中ついて守ることができないなら、ふたり自身に守れるようになってもらうしかない。
もし英雄がらみで何事もなかったとしても、この先食堂と宿を営んでいくのなら無駄な知識にはならないだろう。
それが今回ロイヴェインではなくアリヴェーラがライナスへ来た理由だった。
(それにしても。ホントに)
先程のククルとテオの様子を思い浮かべる。
俺も行きたいと最後までぼやいていた弟。来なくて正解だったと心底思った。




