三八二年 雨の二十五日
昼を過ぎた頃。見慣れぬ黒髪の青年が店を訪れた。
いらっしゃいませ、とククルが声をかけるよりも早く。
「あ、ウィル」
定位置の入口左手の端の席に座るジェットが口を開いた。
「ダンが来ると思ってたんだけど」
「何の話をしているんですか?」
じろりとジェットを睨みつけ、ウィルと呼ばれた青年はツカツカと近付く。
「あの伝言は何のつもりですか?」
「あー…あれ…」
ちらりとジェットがククルを見る。つられてククルに視線を向けたテオは、その表情に納得した。
(…ジェット、またやらかしたな…)
昨日はジェットがいるからと、時々宿に戻っていたのだが、その間に何かあったのだろう。
「…昨日、ミルドレッドでウィル宛に訂正の手紙預けてきた。多分、明日には着くと…」
「俺は今、ここにいるんですが?」
全く退く様子のない青年。口調は淡々としているが、声に怒気が含まれてきている。
「…うん。だからその…」
がばっとジェットが頭を下げた。
「手間かけさせて悪かった!」
潔く謝ったジェットを半眼で見下ろし、黒髪の青年は溜息をついた。
「ウィルバート・レザンです。ジェット付きの事務員をやってます」
光に透けると青味がかって見える黒髪と紺の瞳の青年は、そう名乗って頭を下げた。
年は自分たちよりも少し上だろう。事務員だからか、ギャレット同様帯剣していない。
ククルたちも名乗り、家名だと複数いるので名呼びにしてもらう。同じく名呼びを提案してから、ウィルバートはジェットを一瞥した。
「突然すみませんでした。ジェットが馬替えのときに妙な伝言を残したもので、確認の為俺が来たんですが…」
「馬替えの?」
ウィルバートに席を勧めながら、ククルが尋ね返す。
そうですと頷くウィルバート。
ゆっくりとジェットを見るククル。
そのククルから目を逸らすジェット。
その様子を横目で眺めながら、テオはお茶を淹れる。
「…知り合いって?」
「…顔見知りの馬番」
ぽつりと呟くククルに、ジェットがあさっての方向を向いたまま答える。
「顔見知りといっても挨拶程度で。一方的に言われた上に内容が内容なので、ものすごく取り乱して俺の所に来ましたよ」
「ウィル!」
不都合極まりない補足に声をあげるが、既に遅い。
ククルはテオの淹れたお茶とクッキー六枚を載せた皿をウィルバートの前に置き、ごゆっくりどうぞと微笑む。それから無言でジェットを睨み、袖を掴んで奥の作業部屋に引っ張っていった。
「よくあることなんで、気にしなくていいですよ」
呆気に取られて見送るウィルバートに、事もなげにテオが言う。
「ククルもジェットに甘いんで、すぐ終わります。お昼まだなら作りますけど?」
「…いえ、大丈夫です…」
疲れた様子でそう呟き、ウィルバートはお茶を飲んだ。
夕刻を回り、そろそろ客も来始める頃。
「クゥ〜!」
騒がしく入ってきたジェットは、一緒に来たウィルバートをカウンターの右端の席に座らせる。
「クゥ、今日はウィルが店番な! 俺は宿手伝ってくる」
「ちょっとエト兄さん?」
事態が呑み込めずうろたえるククルに手を振り、ジェットは出ていった。
ウィルバートとふたり残され、どうしたものかと彼を見る。
「あ、あの…」
「酔っ払い対策にここにいるよう頼まれました。座って飲み食いしていればいいと」
諦めた表情でそう告げるウィルバート。
「すみません。あの、大丈夫なので戻っていただいても構わないですよ」
仕事で来ている人に何てことを頼むのだろうか。
申し訳なさでいっぱいのククルが目を伏せて謝ると、ウィルバートの表情が少し和らいだ。
「部屋に戻ってもすることがないのでここにいますよ。ジェットには休暇のつもりでのんびりしろと言われましたし」
「エト兄さん…」
誰のせいで彼はここまで来る羽目になったと思っているのだろうか。
溜息をつき、ククルは改めてウィルバートを見る。
「本当に、ご迷惑ばかりおかけしてすみません。お言葉に甘えて、しばらくお願いしても構いませんか?」
「俺でよければ」
そう言って頷いてくれたウィルバートに礼を言ってから、ふと気付く。
昨日はジェットが店にいてくれたが、彼は基本じっとしていない。来店した住人たちと話したり、宿泊客のギルド員に囲まれたり。本人は酒も飲まないので、合間に食事をする程度だった。
しかしウィルバートはそういうわけにはいかない。
(何を出せば…?)
しばらく悩むが、本人の腹具合もあるだろうと、お茶、酒、食事の三択で聞いてみた。尋ねられたウィルバートも思案顔になるが、食事には早いからと酒を頼まれる。
まだ酒の飲めないククルには勧めようがないので、店にあるものの中から好きなものを選んでもらった。
ウィルバートが選んだのは濃いめの蒸留酒。
どの酒にどんなつまみを出せばいいのかは、ある程度アレックに教えてもらっていた。好みは分かれると言われていたが、内一品にりんごの蜜煮を加えておく。
昼に出したクッキーも、六枚全て無理なく食べ切ったように見えた。なので、おそらくは。
(…甘いものは大丈夫なはず)
食事を出して終わりではなく、表情や減り具合など、食べている間の様子からその人の好みを推測すること。
両親と共に店に立つようになったククルが父に教わったことだった。
そうして用意した酒とつまみをトレイに載せ、お待たせしました、とウィルバートの前に置く。
礼を言ってグラスを手に取ったウィルバートだが、口をつけずにグラスを戻し、ククルを見た。
「黙って飲むと飲み過ぎそうなので、ほかのお客が来るまで話し相手になってもらっても構いませんか?」
酔っ払い対策で来たのに自分が酔っ払うわけにはいかないという至極当然の理由に、ククルは笑ってもちろんですと頷いた。
とはいうものの、共通の話題となるとジェットのことしかない。
「エト兄さんとはいつから一緒にお仕事されているんですか?」
「ジェット付きになったのは五年前です。もちろんその前から知ってはいましたけど」
さすがにギルドて働く者が英雄を知らない、ということはないだろう。
「知り合いに言動が似ていたので、何度かジェットの行動予測を適中させたらこうなりました」
事もなげに言うが、ジェットとそっくりな行動をする者がもうひとりいるなど、ククルは考えたくなかった。目の前の青年は、存外苦労してきたのかもしれない。
「エト兄さん、気ままだから大変でしょう?」
「…気まま、という言葉で片付けていいものかは疑問ですが…」
振り回された挙句、こんな所で酒を飲む羽目になっている青年は、溜息と共にそう呟く。
「まぁ、おかげで借金も返せたので助かりましたけど」
さらりと言われた言葉は聞かなかったことにする。
「ククルさんだったら上手くジェットの手綱を握れるんじゃないですか?」
昼はお見事でしたね、と笑って言われ、ククルは恥ずかしさに視線を逸らす。
「忘れてください…」
ひとしきり笑ってから、ウィルバートは手元に視線を落とした。
「ジェットはここでは英雄ではないんですね」
呟かれた言葉に非難の響きはなかった。
事実確認の中に憧憬の混ざる、そんな声音に。
「ここはエト兄さんの故郷ですから」
それだけはきっぱりと、ククルは告げた。




