三八二年 雨の二十四日
いつも通りを合言葉にふたりが挑んだ翌日。
滞りなく朝食時間を乗り切り、片付けと仕込みに取りかかった頃だった。
ガラン、といささか強めにドアベルが鳴る。
顔を上げたククルの目に、父と同じ金髪と紫の瞳が映る。
「エト兄さん?」
走ってきたのだろう、少し荒い息をつきながら、ジェットはククルを見て表情を緩めた。
「遅くなった、クゥ」
「エト兄さん!」
駆け寄ったククルをジェットが抱きしめる。
「一番大変なときに傍にいられなくて悪かった」
「ううん。来てくれただけで十分」
そのまま泣き出してしまったククルの頭を撫でながら、ジェットは作業部屋から飛び出してきたテオを見やる。
「ありがとな、テオ。一緒に店がんばってるって、町の皆から聞いた」
「そんなこと…。…父さん呼んでくる」
込み上げる何かを振り払うように、テオが店を出ていった。
ほどなく駆け込んできたアレックは、ジェットの背を拳骨で強めに殴る。
「待たせすぎだ」
ククルのことを言っているのだろうその言葉に頷いて。
「ありがとう。アレック兄さんにも世話をかけたな」
「俺のことはいい。宿に顔を出したらクライヴたちの所へ行ってやれ」
「ああ」
ククルを離して頬の涙を拭ってから、行ってくる、と店を出ていく。
事故から八日後。
英雄ジェット・エルフィンがライナスに戻った。
墓参りを終えたジェットが店に戻ってきた頃には、ククルもすっかり落ち着きを取り戻していた。
店の再開やギャレットが来たことなど、ここ数日の出来事を話す。
「エト兄さんはいつまでいられるの?」
ここからギルド本部のあるアルスレイム、通称中央までは、普通なら二日かかる。北の調査の途中だと聞いていたので、おそらくいつものようにすぐ出発するに違いない。
そう思っていたククルに、ジェットは大丈夫だと笑った。
「ギルド辞めてきたから! これからはクゥとずっと一緒にいるからな」
「エト兄さん?」
聞き捨てならない台詞をさらりと言われて、ククルは手に持っていた人参を落としそうになる。
「…今、ギルド辞めたって言った?」
「ああ。だってクゥがひとりになるだろ?」
ククルの声のトーンが一段低くなったことに気付かず、ジェットは続ける。
「血縁は俺だけなんだし、となるとやっぱり保護者代理としては―――」
「エト兄さん」
ジェットの言葉をククルが遮る。
ぴたりと口を噤んだジェットが、おそるおそるククルを見る。
目が合うと、ククルはにっこりと笑った。
「ギルドって、そんなにすぐ辞められるものなの?」
「い、いや、まだ正式に手続きしたわけじゃなくて」
「なくて?」
「その…伝言を、頼んであって」
「誰に?」
「知り合いに…」
「そう」
それきりククルは黙ってしまった。
重い沈黙の中、ククルの様子を窺うジェット。
「…クゥ?」
「どう考えても辞められてないと思うから、エト兄さんはすぐ中央に戻ったほうがいいと思う」
「クゥ! 俺今日来たばっかだぞ?」
思わず抗議の声をあげるジェットに、ククルは溜息をついて表情を和らげた。
「私を心配してくれたからだってことはわかるけど。私だって今年で成人するんだから、もう少し信用して?」
実の十二日になれば十八歳。既に誕生日を迎えたテオより一歩遅れて成人する。
「クゥは俺よりしっかりしてるよ」
そこだけはきっぱりと言い切るジェットに苦笑して、ククルは続ける。
「それに、エト兄さんが辞めたらパーティーはどうするの?」
ギルドでは四名前後のパーティーが組まれている。調査、討伐の規模によっては複数のパーティーで合同ということもあるが、基本は各パーティー個々に行動する。
パーティーと言われ、ジェットは途端に申し訳なさそうな顔になった。
「そうだよな。まだリック預かったばっかりだしな」
リックというのは今年弟子になった新人なのだろう。
どうにか考え直した―――というより冷静になったらしいジェットの様子に、ようやく安堵する。
どうにも暴走しがちな叔父ではあるが、理由はいつでも誰かの為。
名実共に英雄のジェットを、ククルは心から尊敬していた。
「あとでリオルの見舞いに行くから、ついでにギルドに訂正入れとくよ」
あの事故の唯一の生存者リオル・ブラストは重傷であった為、ライナスより医療設備が整ったミルドレッドに搬送された。
ジェットとはひとつ違いの幼馴染だ。
町に来てからリオルのことを聞いたジェットは、ミルドレッドでは替え馬をしただけだった。
クッキーでも焼いて持っていってもらおうと、ククルは急いで準備を始めた。
昼の営業時間はとても賑やかだった。
ジェットの帰還を知った住人たちが次々に訪れ、声をかけていく。
「ジェット、何ククルひとりにやらせてんだ。手伝え」
「俺料理できないし」
「運ぶくらいできるだろ」
皆にせっつかれ、たまたま店にいたギルド員たちが英雄に給仕されるという、よくわからない状況ができあがる。
住人たちはジェットを英雄として扱わず、ジェットも英雄として振舞わなかった。このライナスで生まれ育ったジェットとして、特に年上の住人たちにかわいがられている。
ジェットの英雄としての立ち居振舞いがどのようなものかをククルは知らないが、案外自然体でやっているのかもしれないと、感激するギルド員たちに応対するジェットを見て思った。
昼の騒動も一段落し、ギルドに預ける手紙を書き終えたジェットがそろそろミルドレッドへ行くと言いだした頃だった。
ひとりの女性が扉を開けた。そのまま扉を支え、杖をついた男性を通す。
「リオル?」
「ジェット…」
まだあちこち包帯を巻いたままのリオル。右足を引きずるように店に入る様子に、ジェットが手を貸しに駆け寄るが断られる。
リオルと妻のシェリーはそのまま入ってすぐで立ち止まり、深々と頭を下げた。
「リオルさん? シェリーさん?」
「すまない、ククル、ジェット」
慌ててカウンターから出てくるククル。頭を下げたままリオルは続ける。
「僕を助けたせいで、クライヴは―――」
「リオル」
強い口調で遮られ、リオルはそのまま口を噤む。
息をつき、ジェットは軽くその背を叩いた。
「とりあえず、ふたりが座ってくれないと俺らも落ち着かない」
一番近い椅子をふたつ引いて、ほら、と促す。顔を上げたふたりは何も言わず言葉に従った。
内心ほっとしながら、ククルもジェットに言われるままふたりの向かいに座る。
その隣に座りながら、ジェットはわざとらしく溜息をついた。
「お前だけでも助かってよかったって、俺には言わせてくれないのか?」
ぐっと息を呑むリオル。先程からうつむいたまま、目を合わせようとしない。
「…ジェット。でも、僕は…」
「あれは事故だろ。誰のせいでもない」
きっぱりと言い切る。
間違いなく自分たちよりも、ギルド員であるジェットにとって死は身近だ。誰のせいでもないと割り切らねば重なるそれは心を蝕むことを、ジェットはわかっているのだろう。
「リオル。誰のせいでもないんだ」
低い呟きに含まれる憂い。
はっとリオルが顔を上げた。
ジェットの目を見て小さくそうかと呟き、そのまま再びうなだれる。
「…悪かった」
「わかってくれたならいい」
辞色を和らげるジェットに。リオルは顔を上げ、少し寂しそうに微笑む。
「…ジェット、お前はすごいな」
「皆がいればこそ、だよ」
ふたりの言葉が何を指すのか、ククルにはわからなかった。
「すまなかった、ククル」
謝るリオルにククルは首を振る。
クライヴは最期、馬車の異変に気付いて荷台からリオルを突き落としたそうだ。おかげでリオルは沢へと落ちず、大怪我をしたものの命は助かったのだという。
「あのとき僕に構わず自分が飛び降りていれば、クライヴは助かっていたかもしれない。僕も子を持つ親だから、こどもを残していく無念を考えるとどうしようもなく辛くて」
同じ父親として。残された自分のことを案じてくれたからこその行動だったのだろう。
そしておそらくクライヴもまた。同じ父親として、リオルを救おうとしたのだろう。
「父さんはリオルさんが助かって喜んでるはずよ」
まっすぐリオルを見て、ククルは告げた。
「私は今までずっと大切に育ててもらってきたもの。この店にも、町にも、両親との思い出がたくさんある」
悲しくないわけではない。それでも、思い出して嬉しくなったり誇らしくなったり。そんな思い出がたくさんあるのだ。
何を言いたいのか気付いたのだろう。はっとした表情でリオルがククルを見返す。
「ラシルはまだ三歳、レミーだって六歳なんだから。もっとたくさん、一緒に思い出を作ってあげて」
「ククル…」
隣で堪えきれずに泣き出したシェリーの肩を抱いて、リオルは一度目を閉じ、改めて向き直る。
「ありがとう。今日、ふたりと話せてよかった」
まだ翳りは消えない。しかしそれでも、強い決意がその瞳にはあった。
話が一段落したところで、足の具合はとジェットが聞いた。
うん、とリオルが曖昧に笑う。
「ミルドレッドではこれ以上の治療は難しいと言われたんだ」
先程の様子を見る限り、治ったとはとても言えない。仕事はおろか、日々の生活にも苦労するのは目に見えていた。
「それならもうライナスに戻ろうかと話していた矢先、ジェットが通ったと教えてもらったから。少し強引に退院してきたんだ」
ジェットはしばらく考え込んでから、それなら、と口火を切る。
「中央の医者に来てもらって、一度詳しく診てもらったらどうだ? もちろん俺が手配するから」
「え?」
唐突なジェットの申し出に唖然とするリオル。全く気にした様子もなくジェットは続ける。
「ギルド関係の医者なら怪我に詳しい奴のほうが多いし。…となると資料か」
ブツブツとしばらく呟いて。おそらく自分の中ではまとまったのだろう、よし、と頷いて顔を上げた。
「シェリー。悪いんだけど、今から俺とミルドレッドに行って、入院してた病院に案内してくれないか?」
突然名を呼ばれ、シェリーはびくりとしてから慌てて頷く。
「わ、わかったわ」
「リオルは家に帰ってチビどもに顔見せてやれ」
事故から一度も会えていないのだ。その上シェリーも身の回りの世話に行ってしまっているとなれば、幼い姉弟がどれだけ不安か、想像に難くない。
がたり、とジェットが椅子から立ち上がる。
「じゃ、クゥ。行ってくるよ」
「お、おいジェット!」
勝手に決めてしまったジェットに慌てるリオル。しかしジェットの性格はよくわかっているのだろう。息をつき、ありがとうと呟いた。
ククルは急いでこどもたちへ渡す為にクッキーを包み、町へと向かう三人を見送る。
ちなみに痛々しくて見ていられないという理由で、ジェットはリオルを横抱きにして連れていった。
細身とはいえ成人男性を軽々と運ぶ姿はさすが英雄なのだろうが、あの姿で自宅に運ばれるリオルが不憫でならなかった。
読んでいただいてありがとうございます。
こんな感じで、時々ユルく、時々真面目にやっております。
序盤は恋愛成分少なめで申し訳ないです…。




