悪魔の隙間
帰宅したルイスを待っていたのは、アンジェリカが目を覚ましたという知らせであった。それを伝える母の涙が、真実にアンジェリカの身を思ってのことか、クラウディアの罪が重ならなかったことに対してのものか、ルイスには分からなかった。
「話せますか?」
「ええ。伏せっていたから体力は落ちていますが、意識ははっきりしているし案外元気ですよ」
「クラウディアのことは話しましたか?」
聞かれて夫人は、びくっと肩を強ばらせる。なんと話せば良いのか、話して良いのか、判断できなかったのであろう。ルイスは母の肩を慰めるようにポンと叩く。
「私に任せていただけますか」
「! はい。お願いしました」
母の安堵を見て冷たい視線を投げつけてしまったのは、単純に落胆したからであった。
「母上は、クラウディアに嫉妬なさっておいでなのですか?」
突然言葉で斬りつけられ、考えが追いつかない様子の母に、更に追い討ちをかける。
「あなたに無い強さと賢さがありますからね。クラウディアは」
「母を…… 馬鹿にするのですか?!」
胸の前で組まれた手はぶるぶると震えている。頭は追いついてこないながら、感情だけで反論を試みる様子が哀れだと、ルイスは思う。その手を見つめ片手でそっと触れると、こちらにも震えが伝染してくるようだった。
「馬鹿にするわけがありません。母上には、クラウディアとは違う強さと賢さがあります。自信を持ってください」
「何を今更……」
「クラウディアにできなくて母上にできることなど、たくさんあるでしょう。クラウディアは…… 外見以外に女性らしいところなどありません。あれの本質は男です。女性として社会が期待する役割を全うする能力は、母上の方が高いし、アンジェリカの方が高いでしょう」
「……」
「クラウディアは、あなたやアンジェリカの在り方を脅かす敵ではありません。父や私のように、母上に仕え守る騎士とお考え下さい。あれも、そう考えている筈です」
誇張した部分はあったが、言い切ってしまえばそんな風に聞こえるものだ。或いは、夫人にも思い当たるふしがあったのだろう。
「そうね。あの子は…… そうかもしれない……」
「アンジェリカは母上に似たところのある娘です。私は、だから良いのですよ」
手の震えは治まっていたが、ルイスは尚も母の力無い手に手を添えて続ける。
「私は、決してどうでも良いから『好きになさってください』と母上にアンジェリカを預けたのではありません。妻には、クラウディアのようではなく、母上のような女性をと常々思っておりましたので、お願いいたしました」
「ルイス……」
涙ぐむ母を残して、その場を去る。アンジェリカの部屋へ向かいながら、ルイスはクリスから受けた忠告の意味を実感していた。
(皆の脆いところを揺さぶって、隙間に入り込んだのか。まさしく悪魔、だな)
アンジェリカを悪魔と言ったビューラーの言葉を、クリスはルイスに伝え、ルイスはその意味を朧気には理解していた。ただ、既にギョー公爵家の奥深くまで悪魔の手が侵入しているとは気付いていなかったのだ。
コンコンとノックして部屋に入る。ベッドの中で半身を起こしていたアンジェリカが、入ってきた人物を見て驚いた表情をする。
「下がっていろ」
部屋の中で細々と動き世話していた侍女に言いつけると、不安そうな、心配気な視線をアンジェリカに送りながら礼を取って出て行った。
「慕われているのだな」
「珍しいですね。ルイス様がいらっしゃるなんて」
その言葉を無視して、ルイスはベッドに腰掛け、アンジェリカの頬に手を伸ばし、触れた。
「やつれてしまった。あなたの華やかな髪には、艶やかな薔薇色の頬が似合う。早く元気な姿に戻ってください。あなたが倒れて、皆が心配していた」
「ルイス様は?」
返事する代わりにアンジェリカの顎をくいと上げ、唇に軽く口付けた。
「どうして?」
目を見開いたままそれを受けたアンジェリカが、訝しげに尋ねた。
「クリス様がこの屋敷で毒を盛られた。犯人と疑われて連行されたのはクラウディアだ。……知っていることを、今この場で全て話せ」
「何も知らない」
そういうことね、と言わんばかりに溜め息をつくと、悪女然として髪をかきあげる。
「クラウディアはルークにたどりついたよ」
ルイスの一言に、余裕が一気に縮むのが見て取れる。
「なぜルークを知って……?!」
声の震えを必死に抑えるためか、ルイスを拒む防波堤のつもりか、胸の前で自分の手首をもう片方の手でぎゅっと握っているのが健気であった。が、逃がさない。その、握りあった手と手首を掴むとぐいと下ろさせ、距離を詰める。
「ルークに何をさせられたにせよ、ギョー公爵家が永遠にあなたを守ろう」
顔を寄せ間近に目を見つめて真摯に言い切る。しかしアンジェリカは顔を伏せ身を引いて距離を空けると、首を振った。
「私の過去は公爵家の醜聞となります」
「かまいません。あなたがかまうと言うなら、闇に葬るだけです」
「無理です。私は……」
「アンジェリカは私の妻。もう、この家の人間です。ギョー公爵家は、決して家族を見捨てません。あなたは安心して私たちに守られていれば良いのです」
尚も逃げようとしていたアンジェリカの腕を掴むと、伏せっていたために力無くなった身は簡単に引き寄せられた。その実際以上に弱い身体を抱き締めるでもなく、ただ自分の肩に頭を預けさせた。大人しくされるままになっているアンジェリカの頭を撫で、耳元で小さく呟く。
「もう十分傷ついているのは知っています。……死のうとしたのでしょう?」
その言葉を聞いて身をこわばらせたアンジェリカを両腕でふんわりと包み込む。
「あなたは一言、『助けて』と言えば良い」
小さく肩を震わせて泣く少女のような人の背中を、ルイスは溶かすように優しく撫で続けた。