蔵書庫にて【ラルフ】
前話のつづき。ラルフ視点です。
(ああ、大失敗……)
普段、あまり真正面から目を見たりしないクラウディアが至近距離から見つめたりするから、言おうとしていたのと全く違うことを言ってしまった。
(抱き寄せたりするつもりも、なかったのになぁ……)
流される弱い自分に呆れた。しかし、驚いたことに、後悔は無い。一旦抱き寄せてしまうと、溢れ出た思いが言葉となって、二人の上に降り積もっていく。身動きがとれなくなり腕の中で大人しくしているクラウディアの、線の細さやしなやかさ、温かさが、猫のようだとラルフは思う。腕の力を強めれば、きっとこの猫はするりと抜け出て、いなくなってしまうだろう。だから、強くは抱き締めない。
「ごめんね、クラウディア。本当は意識してほしいなんて言うつもりじゃなかったんだ」
こちらを見ない、猫のようなクラウディアの頭に唇を落とす。
「分かっていてほしいんだけど、オレはクラウディアを心から思っているんですよ。何を選んで何をしても全部受け入れます。絶対に裏切らないし、この思いは変わらない。だから、信じて、頼ってほしい。アンジェリカにしろ、フォーサイスにしろ、危険なことや悪いことはオレがやるから、全部こちらに押し付けて」
暫く待っても返事は無かったけれど、代わりに、無頓着に投げ出されていたクラウディアの両手が、そっとラルフの背中に添えられた。
伝わっただろうかとホッと胸を撫で下ろした瞬間、クラウディアの細い指先が、意識的にか無意識的にか、腰のあたりから上に向かってゆっくり背骨をなぞった。それは、ほんの短い距離であったが、ラルフの全身を粟立たせるには充分であった。その瞬間に湧き上がったものを、ラルフは制御できなかった。
「……ごめん」
先程のとは違う低く掠れた声、重々しい調子で発せられたラルフの謝罪の言葉に、何事かと顔を見上げたクラウディアの首の後ろに手を回し、逃げられないようにして、唇を塞いだ。
それは、獲物を捕らえたときの高揚感にも、レオン・ビューラーを狩ったときの残忍な愉悦にも酷く似ていて、クラウディアに申し訳なくなる。しかしその申し訳なさも、繋がった唇から湧き出す愛おしさの波に、あっと言う間に飲み込まれる。
(ああ、もう、本当に。こんなつもりじゃなかったのに……)
気付けば、拒絶の言葉どころか、息を吐く暇も与えないくらい、強く抱き締め、口内を貪る深いキスを何度も繰り返し落としていた。
◇
「何かおかしいですよね」
放課後の教室。堪え切れないといった様子でカインが詰め寄ってきた。唐突だが、何を言いたいのかは分かる。
「何の話? とは聞かないよ。うーん。たぶん、カインが心配してるようなことじゃないよぉ」
もっと悪いことかも知れないけど、という言葉は飲み込む。
あの日、あの後、解放されたクラウディアは、散々に吸われた唇が艶めかしく赤く腫れていて、それを見た時に、ラルフはまた申し訳なくなった。クラウディアは呆然としたまま、自分の口がそこにあるのを確かめるように指で唇に触れ、お辞儀ひとつして帰って行く時も、翌日からの学園内でも、ラルフのいる場所では口が利けなくなったように押し黙っていた。
ラルフに分かるのは、あの日の行為がクリスの時のような誤解をされていないことと、嫌がられてはいなかったということだけであった。ラルフにはそれで充分だったが……
「判決を待つ罪人の心境。では、ないな。ただ、もう、委ねるしかない身の悟りに達した感じかなぁ」
「意味がわかりません」
「東国にはそういう思想があったんだよぉ。他力本願って言ってね、人というのは自分の力では何も成せないものだ。自力で何かを成せるなどという驕りを捨てて、他力…… まぁ、人ではなくて神様みたいなものだけど、その神様の御力に縋った先にこそ真の救い、真の悟りの境地が……」
「そんなことを聞いているのではありません」
「カインは、どうしてほしいの?」
「……でしゃばっているのは知っています。口出しできる関係でも立場でもありません。しかし、あの方が思い悩んでいるのは分かります。原因はあなたでしょう?」
んー、と考える素振りをしてみる。クラウディアが悩んでいるのは知っている。だが……
「クラウディアは大丈夫。今は、自分で頭とか心とかを整理する時間なんだよ。傷付けたわけでも、喧嘩したわけでもないから安心して」
傷付けたわけでも、のところは少し自信が無かったが、希望も込めて言い切った。