甘い憎しみ
騒がしい教室の中、クラウディアに話し掛ける者は多くない。本人は前日読んだ恋愛小説の内容のヒロインを男子に置き換えるという腐った妄想に身を浸しているだけであったりするのだけれど、端から見ると、窓際の席で物憂げに頬杖をつき、時折、困ったように、意味深げに溜め息を漏らす、ただの妖艶な美女である。そんなクラウディアを身体の一部を熱くしながら盗み見る男子生徒の中に、最近、フェリックスが加わった。
「用も無いのに休み時間毎に来ないでください」
「目に焼き付けてるんだよ」
「意味が分かりません」
「わかるくせに」
毎度ダシに使われるカインから忌々しげに睨みつけられながらも、兄弟子は気にもせず、クラウディアを眺め続ける。
「あの人の色気って、何だろう。清楚なのに愉楽的っていうか、巷の生臭い女とは纏う空気が違うって、カインは思わない?」
無言で無視するが、そうすると、この爽やか好青年のふりした性悪な兄弟子は余計に突っかかる。
「良いとこのお嬢さんだし、絶対処女だよね。堪んなくない? 汚したぁい」
耳元に口を寄せて囁かれた言葉に、カインは眉をピクリと引きつらせたものの、それきり表情を変えないでいる。それを見て、フェリックスが畳み掛ける。
「最近、新しい猫を飼い始めたんだ。外国の猫で珍しい模様なんだよ。クラウディアが見たいって言うから家に招待したんだけど、カインは来ないでよね」
「行きませんが、行かせません」
ガタンと威圧的な音を立てて突然立ち上がったカインが、クラウディアを見つめるフェリックスの視線を遮るように立ち塞がる。
「もう来ないでください」
凄まれても怯むことなく笑顔を崩さないフェリックスを、教室の外へ押し出す。
「知ってる? 僕、美味しいものに目がないんだ」
そんなことを言ってにこやかに去る兄弟子の背中に、唾を吐きたい気分であった。あの兄弟子は、裏も害も無さそうな上品な物腰と外面をして、その実、無責任で享楽的で女性に手が早い。クラウディアの対局にあるような人物である。留学というのも、もつれた女性関係を清算させるために親が外国に行かせたのが真相だ。そして、チェスでは敵わない弟弟子を、他の部分で出し抜こうとする悪癖についても、カインはよく知っていた。
(あの方について話したことなどないのに……)
どこで知ったのかクラウディアに近付いてきたフェリックスの察しの良さと、思いを隠し切れていなかった自分に腹が立つ。弱味を握られたら利用されると、父を見て知っていたのに。
そんな思いのまま、不機嫌な顔で窓の方を向くと、妄想から不意に現に戻ったクラウディアと目が合った。きまりの悪さに、目を逸らす。こんなふうに無意識に見ていたのだろうかと思って俯いていると、机の上に白い、華奢な指先が乗せられた。思わず仰ぎ見ると、心配そうに覗き込むアクアマリンの瞳と視線がぶつかった。
「大丈夫ですか? 具合が悪いの?」
その距離が意外なほど近かったのと、余りに純粋に自分を心配してくれているのとで、いたたまれなくなって目を逸らした。
「大丈夫です」
声が掠れた。
「そう?」
まだ心配そうな声ながら、席を離れようとするクラウディアの手を、思わず掴む。少し驚いた様子を見せたが、掴まれるままにしているクラウディアに、カインは殆ど懇願するように言った。
「フェリックスの屋敷には行かないでください」
なぜ? と、聞かれたら何と言おう、などと考える暇もなく、口をついて出ていた。一瞬間があって、クラウディアの口が開く。
「わかりました」
その答えに、カインの方が虚を衝かれた。
「え?」
「カインが言うのなら、行きません」
「理由を聞かないのですか?」
「聞いても良いですが。カインがやめた方が良いと言うなら、そうなんだと思います」
呆気にとられる。
「たんなる私の我が侭かもしれませんよ」
「だとしても変わりません。私にとっては、フェリックスよりカインの方が大事ですから、カインが不快になることなら、したくありません」
その言葉に頬が熱くなる。言い切ってふんわりと笑うクラウディアの手を、離したくないと思ってしまう。どうせ無自覚なのだろう、他意はなく、信頼から出ただけの言葉だろうとは分かっていても、それ以上を望みたくなる。
(本当に、この人はどこまで振り回してくれるのでしょうね……)
憎々しく思いながらも、その憎しみは胸の中に甘く広がる。
「こんな弱味じゃ、手放せないですよ」
口の中で呟いた言葉を、聞き取れなかったクラウディアが小首を傾げた。