堕天【5】
父と暮らすようになっても、相変わらず愛情とは無縁の生活であった。長く会わずに大人になってしまった娘は、もはや他人であるらしく、娘にとっての父もまた同様であった。アンジェリカは突然恋人同士となった父母に邪険にされ、適当に礼儀作法だけ教えられてデビュタントボールを迎えることになった。
社交界に踏み出すその朝、アンジェリカは学園の寮で荷を解き、それを手に取った。デビュタントのルールに沿わない、青いドレス。彼女が両親に持たされた荷物で舞踏会に着て行けるような衣装はそれだけで、残りは、学園の制服と、貴族にしては粗末な普段着が二着だけであった。貴族のことなど知らない庶民の母と、社交界への関心など無い父のすることである。金を出し渋っているわけではない。わざと意地悪しているわけでもない。両親は、きっと、ただ興味が無いだけなのだと、アンジェリカは痛いほど理解していた。が、或いは、とも思う。或いは、「このドレスで相手を見つけて、どこへなりとも行け」という、手切れ金代わりの一着ではないかと。
夢に見た華やかな世界。ここで相手を見つけなければ、帰る家など無い。しかし、「天使」であった自分を見抜く者がいるかもしれず、前途は多難であった。それでも自らを奮い立たせる。やっと舞台に上がれるのだ。ここが乙女ゲームのスタートであるからには、賽の方で勝手に上手く転がってくれるのではないか。そんな淡い期待もあった。
しかし、青い戦闘服でいざ乗り込もうとした会場の入口で、アンジェリカの前に立ちふさがる人物があった。数年ぶりの対面で、服装も全く違っていたが、誰であるかはすぐに分かった。
「鴨でも探しに来たのですか? まさか、デビュタントだなんて言わないのでしょうね」
「ルーク、あなたは貴族だったの?」
街角で見たのとは違い、正装に身を包み、呆れ顔で腕組みをするルークがそこにいた。
「こちらの台詞です。本当にデビュタントとか? まさか、こんな貴族がいるとはね。一番の障害を取り除いてくれた功労者と思って、情けをかけたのですが。騙されました」
言うなり、ルークがすっとしゃがみ込んだ。その手の中に光る物を見たような気がしたアンジェリカは、傷つけられる恐怖で後ずさる。と、同時に気付いた。揺れるドレスがスリットのようにざっくりと切られていた。
「……帰りなさい、お嬢さん。あなたに出てこられては困る」
立ち上がったルークが、威圧的に笑う。だが、アンジェリカとて、ここで引き下がるわけにはいかない。止める暇も与えず、その格好のまま扉を開け、呆気に取られるルークを後目に広間に入ってしまった。
(誰でも良い、あたしに気付け!)
考えがあったわけでは無い。それでも、誰かに目を留めてもらう必要があった。それからの大立ち回りは、ただただ、目立つためのことであった。ルークの指示で美人局する以前の客。「天使」に気付き、自分の性癖をアンジェリカごと隠そうとする輩は、きっといる。その可能性に賭けた。
(あたしを匿い、隠せ!)
もはや、その目には、クラウディアもクリスも映ってはいなかった。かつての客を探し、一人の男に目を留める。
見つけた。
金物屋に暴利で金を貸し付け、破産寸前に追い詰め、外国に売る子供を見繕わせようとした悪党。その名を、ビューラー辺境伯という。
◇
(助かったと思ったんだけどな……)
所詮は浅知恵。ビューラーはアンジェリカの手に掛かってはいなかったが、それ以前からの、ルークの協力者であった。
アンジェリカはベッドに寝ころんだまま、スカートのざっくり切られた青いドレスに目をやる。それはいつも、鏡の横の壁に吊してあった。
クレイル男爵は、事情もわからないまま、手紙一つで娘を公爵家に嫁がせた。それを知り、アンジェリカの両親に不信感を持っていたギョー公爵夫人は、彼女の少ない荷の中に件のドレスを見つけた時、その評価を「無知で無能で下品な娘」から、「デビュタントのルールに則らない上に破れたドレスを、それでも両親からもらった大事な物だからと手放せない、親から知識も愛情も何も与えられなかっただけの、不憫な娘」に変えた。
それは、アンジェリカが狙った通りの効果であったけれど、壁に吊しておくのには他にも理由があった。鏡を見るたび嫌でも目に入るそれは、両親に対する恨みと、クラウディアに対する妬みを、何度でも再燃させた。
(クラウディアを蹴落とす)
自らの幸せな将来が見えないアンジェリカには、クラウディアを道連れにすることくらいしか、生への頼りとするものが見つからなかった。
アンジェリカの過去編終わり。次回より通常営業です。