堕天【4】
母が、どこまでのことを知っていたのかは分からない。しかし、次の給金を受け取るとすぐにアンジェリカを連れて別の土地に移り、その後は、王都に近い町に住むことはなかった。
「天使」と呼ばれていた少女もまた、それきり消える筈だった。前世を思い出し、子供を食い物にする男への生理的嫌悪感を持つようになったアンジェリカは、二度と男達の膝に乗るつもりはなかった。少なくとも、飴や、安物のアクセサリーなどと引き換えにされる内は。アンジェリカは前世、キャバクラで働く、夜の女だった。女は売れる性だと考えていたし、なるべく高く売らねば損だと考えていた。乙女ゲームをしていたのも褒められた経緯ではなかったが、とにかく、自分が将来得る物を知った。
いつか来る父親からの迎えを待ち、いつか来る華やかな日々を夢見て、善良になろうと努力した。母親への愛情は消え失せていたが、円滑でいた方が都合が良いので、必要があれば胡麻も摺った。そうして、暫くは平穏な日々が続いた。
一年ほど経ったある日、一人でおつかいに出たアンジェリカは、そいつに出会った。
「君ってもしかして、桃色の天使?」
立ち止まったところを、背後から耳元で囁かれギクリとした。言葉を無くして、身動ぎできずにいると、「やっぱりね」と笑う。振り向いて見たそいつの顔を、アンジェリカは生涯忘れないだろう。ルークと名乗ったそいつは、仕事を引き受ければ身の安全は保証すると言った。つまり、言うことを聞かなければ、然るべきところに引き渡すと言うことだ。
仕事は単純であった。指定された相手と接触し、客になりそうであればルークに伝え、後日、美人局をするのだ。狙いは金銭でなく、相手の弱みを握ることであるらしかったが、なぜそれをするのかは教えてもらえなかった。一度、しつこく聞いたら、「国家を転覆させて、良くするため」と嘯いていたが、事実とは思えなかった。
アンジェリカは相変わらず各地を転々として暮らしていたが、ルークの同胞は多いらしく、どこに行ってもルークの手の者が仕事を伝えてきた。任を解かれたのは、彼女が初潮を迎え、少女らしさが陰ってきたからであった。その頃には十分な駒が揃っていたのかもしれない。とにかく、好きにして良いと言われ、そのまま二度と、ルークもルークの手の者も現れなかった。
それから父が自分たちを迎えに来るまでの間こそが、アンジェリカにとっての本当に平穏な日々であった。父の正妻は大病を患い、もはや夫の愛人を追う気力など失くしていたし、父と母は連絡を取り合い、お互いの信頼と愛情を取り戻していた。貧しさは多少緩和され、正妻という母との共通の敵が亡くなるのを、今か今かと待ちわびる。それは、楽しいものであった。
不安はあった。社交界に出た時に、自分が「天使」その人であると、かつての客に知られてしまうかもしれないと思うと、恐ろしくて寝食も取れないほどであった。
まさか、その、かつての客に助けを求めなくてはならないほど最悪の事態があることなど、想像もしていなかった。
次回でアンジェリカ回は終わりです。