堕天【2】
七歳になった頃、アンジェリカは母と山麓の街にいた。王都に繋がる街道の宿場町であり、立ち寄る旅人と土産売りの露店などで賑わう、小さいながら活気のある街で、アンジェリカは買い物に出る母に、荷物持ちと称してついて行くのが日課となっていた。
よく晴れた日であった。いつも通り買い物について出たアンジェリカは、忙しい母から離れ、一人、露店を眺めていた。キラキラ光る土産物の装飾品と、それと引き換えに自分を膝に乗せたがる大人を物色していたのだが、その日は、街の様子がいつもと違った。大人達の話に聞き耳を立てると、領主の子供が友達を連れて遊びに来ているのだという。話しぶりから察するに、良い領主であるらしく、その子供は誕生から領民たちに見守られ、愛されているようだった。友達というのも、街の警護が厳重になったのを見ると、大層な地位のある貴族の子供ではないかと噂されていた。
それがどうやら自分と同じくらいの年齢の子供であるらしいと知って、アンジェリカは、とても見たくなった。自分のような特別な子供と比較したら、たんなる貴族の子供など、地位があろうと愛されていようと、大した代物ではない筈だと高を括っていたのだ。
好奇心に駆られて人混みの間を縫って行き、子供達の一行がこちらに向かって来ると聞いた場所で、何気ない振りをして待つ。暫くすると通りが騒がしくなり、やってきた人物を見て、アンジェリカは息を呑んだ。自分より少し年上であろうか、三人の見目麗しい少年達と、その中央を、守られるように歩く儚げな美少女。目を奪われ、立ち尽くしていると、不意に視線を上げた少女と目が合った。汚れの無い透き通ったアイスブルーの瞳。
反射的に、アンジェリカは顔を逸らし、人混みに紛れて走り続けた。自分の無知と傲慢さを恥じた。無垢な少女の視界に入る薄汚れた自分を想像すると、いたたまれなかった。
(どうして、自分を特別だなどと…… クラウディアに勝っているなどと思ったのだろう!)
そう心の中で叫んでから、はたと、少女の名を知る自分に気付いた。なぜ? と、自分に問うた瞬間、記憶の堰が切られる。一瞬の眩暈の後、アンジェリカではない誰かの記憶が突如として脳内へ溢れ出し、目の前を猛烈な速さで走馬灯が回る。
暫くその場にうずくまった後、ゆっくりと立ち上がったアンジェリカは、以前の彼女ではなかった。
自分の前世、これからの自分の運命、拭うことのできなかったこの世界への違和感、そして、これまで自分が食欲や物欲を満たすために大人達に差し出し搾取されていたものの正体をも、唐突に理解した。
そこから、どう歩いたのかは覚えていない。まだ露天商と何か交渉していた母の元に帰ったアンジェリカは、母の服の裾を引っ張って注意を向けさせると、尋ねた。
「お母さん。あたしがおじさんたちの膝に座ってるの、知ってた?」
面食らったように目を見開き、一瞬動きを止めた母であったが、すぐにいつもの無感情な様子に戻り、まだ裾を掴んだままのアンジェリカの小さな手を払い除けると、着崩れた服の乱れを直して、答えた。
「大事な物は、もっと分かりづらい場所に隠しなさい」
それだけ言うと、母は、買った荷物を抱え、呆然と立ち尽くす娘を一瞥すると、屋敷の方角へ歩き去ってしまった。
母の背中を見つめながら、アンジェリカは何が起こったのか理解できずにいた。幼い娘が、そうとは知らずに性を切り売りしていること、それで得た対価を隠し持っていること、隠し場所まで知っていて止めずにいたのだ。それの意味するところは明白であったが、心が理解を拒んだ。
ついさっきまで、胸に渦巻く怒りや恨みを叩きつけようとしていたのに、その相手が混沌だけ残して目の前から消えてしまった。行き場の失い衝動を持て余した彼女は、自分が壊れてしまわないよう、本能的に別の相手を選び取った。
「あの子だけ綺麗でいるなんて、許せない……」
自分と同じ転生者であろうに、自分とは全く違う、光の中を歩く少女を。