キャバ嬢とホストの化かし合いの陰で
クリスとの世界史準備室での一件の最中、「これは、押し倒されているのではないか?」という疑問を、クラウディアは持たなかった。というより、「意識しすぎ」たくない一念で、意識下にねじ伏せていた。
原因は前世の苦い記憶にある。学生時代に飲み会の帰りに「家、遠いから泊めて」と男友達に言われて、ドキドキしつつ部屋に上げたが、普通に寝て普通に翌日帰って行ったとか。会社の飲み会で、酔った自分を介抱してくれた同僚にタクシーに乗せられ、「これは、お持ち帰られちゃうやつでは?!」とドキドキしていたのに、何事も無く普通に送られたりとか。それを後から「なんか期待した?」と茶化され、「するわけないでしょ。自意識過剰!」と笑って否定しながら、自分の方こそ自意識過剰だとザクザク傷ついた。
そう言った苦い前世の記憶があればこそ、クラウディアは、男性の下心を疑うべき場面に遭遇すると、「そんなことは起こり得ない。自意識過剰!」と可能性を否定してしまう。その装置は自動的に作動するので、もはや、自分では意識できない。魂に刻み込まれた傷は、簡単には埋まらなかった。
故に、クリスとの件が収束した後、クラウディアの中には一つの疑問が残った。
「二人きりって、どういう状況のこと?」
意識しても自意識過剰にならない、ドキドキするのが正解な「二人きり」が、全く分からない。これではクリスに注意された二人きりに対処できない。
本物の逢い引き現場というものを見たら、気をつけるべき状況が分かるのか? そんな冗談を言ったところ、ラルフが「放課後、植物園の温室に潜んでたら、丁度良い学習材料が来るよ」と言い出した。
クラウディアが温室の茂みに潜んでいたのはそんな理由からであったが、やってきたのがルイスとアンジェリカだったために学習どころではなくなった。
「私にはルイス様だけです」
ベンチに座ってすぐ、ルイスにしなだれかかるアンジェリカ。その手は、何の躊躇いもなく、指定席のように隣の男の太腿に乗せられる。それを気にする様子もなくツンとそっぽを向いたままのルイスが仕掛ける。
「そんなことを言って、他の男も手玉に取っているのですね。仕方のない人だ。しかし、手に負えない女性も面白い。そろそろ私の物になりませんか」
「でしたら、今すぐ私と結婚してください」
「婚約ではなく?」
「ええ。今すぐ学園を辞めて、旦那様に尽くしたいのです。それができない方の物にはなれません。駄目ですか?」
計算し尽くされた上目遣いは、流石にクラウディアを「陰キャ喪女」と言い放つだけあって、可愛らしい。自分は違うと納得させるだけの手腕はありそうだ。ホストとキャバ嬢の騙し合いのような雰囲気もあるが、言葉や仕草に、クラウディアには真似できそうもないテクニックがてんこ盛りで目が離せない。
「あざといな」
集中して見ていると、突然、隣から声が上がり、クラウディアは悲鳴を上げそうになった。
「すまない。ルイスを探しに来たらこんなことに……」
口に指を当て、「静かに」のポーズをしたのはクリスであった。すぐ近くに寝転んでいたと言うが、どうやら寝入っていたらしく、後頭部に草がついている。その、力の抜けた佇まいがなんとなく可愛らしい。
「私もそんなものです。しかし、困りましたね」
「うん。困ったな」
困ったと言いつつ目が離せない二人をよそに、ルイスとアンジェリカの距離はどんどん近付いていく。
「今すぐ結婚ができないなら、クリス王子に引き合わせてください」
「会ってどうしたいんです?」
「お願いがあるのです」
「私ではお力になれないのですか?」
目を伏せ、ふるふると首を横に振るアンジェリカは可愛らしくて、「これは絶対、庇護欲が擽られる筈!」とクラウディアは、ちらりと横目でクリスの反応を盗み見る。と、思い切り引いた顔で絶句していた。
(あれ?)
先程の、上目遣いに対する「あざとい」といい、女子の思うモテテクニックはクリスにあまり響いていないらしい。
「あの、クリス様」
ちょんちょんと肘のあたりを突っつき、顔を寄せて小声で尋ねる。
「アンジェリカさんの、あの、手。あれはどう思いますか?」
「ああ、大胆なところに置かれていますよね。あれは…… あなたはやらないで下さい」
「されると嬉しいですか? 可愛いと思うのですか?」
「可愛い、とは違います。嬉しい、とも違うかな。何というか、心ではない部分が刺激されます」
さっぱり分からずキョトンととするクラウディアの頭を、クリスは敢えて子供相手のようにポンポンと叩く。
「もう、このくらいで勘弁してください」
そう言って口元を手で隠し、目を逸らすクリスは耳まで真っ赤だ。そんな様子に、恥ずかしいことを言わせてしまったと気付き、クラウディアも目を伏せる。
「ははっ。もう二人きりにならないと言ったのに、二人きりになってしまいましたね」
「あ? え? そう、ですね。二人きり……」
そうかこれも「二人きり」に入るのか、と、二人きりの定義がますますわからなくなり、頭上に疑問符を浮かべるクラウディアであったが、クリスは、それを穏やかに笑って見つめていた。
「すみません。私が以前言ったことは一旦忘れていただけますか。私はずっと、あなたとの婚約はまたいつか結ばれるものと思っていました。あなたはいずれ私の物になるのに…… と、傲慢にも、あなたの傍に居る男に嫉妬したり。恥ずかしいですね。本当に」
そう言ったクリスは、以前、デビュタントのエスコート役を申し込んだ時とは違い、気負いが無く、子供の頃のように曇りの無い悪戯っぽい瞳に戻っていた。
「はぁ……。まったく。何に向かって、一生懸命背伸びしていたんだか……。あなたはこんなに近くにいたのに」
「クリス様?」
「クラウディア、婚約も完全に白紙に戻りましたし、もう一度、何もないところから始めませんか。今度こそ、ちゃんと、あなたの気を引かせてください」
憑き物が落ちたようなキラキラの笑顔。小さなクラウディアが好きだった、小さなクリスの笑顔がそこにはあって、頷く以外の選択肢は無かった。
「おかえりなさい」
微笑んで言う。今のクリスには、なんとなく、その言葉が相応しいような気がした。