蛹の王子
まだ授業時間内だというのに、廊下が騒がしくなる。普段は行儀に厳しい教師達がバタバタと走り、各教室に何か通達して回っているようだった。
「そのまま、席を立たずに待っていなさい」
その時間を担当していた教師も、教壇を降り廊下へ出て行く。暫くして戻ってくると、一人の生徒を呼び、再び廊下に出ていった。
何が起こっているのか分からずざわつく教室の中で、カインとラルフだけは身動ぎせず成り行きを見守っていた。昼休みに話していたのとは違うシナリオをクリスが選んだのだと理解したラルフは、頬杖をつき心底楽しそうに「つまんない奴」と呟き、カインは無言で胸を撫で下ろしていた。
連れ出された生徒の荷物を取りに来た教師が、今日はこのまま帰るよう告げる。皆が、訳の分からない状態で帰り支度を始める中、ラルフはいち早く教室から抜け出し、集められた生徒達が居るであろう学長室を目指す。
「子爵、子爵、男爵、男爵、子爵……」
一旦外へ出て、窓から中を覗く。集められた生徒は七名いたが、その内二組は兄弟で、伯爵以上の家の者はいない。大部分は何事か理解できていない様子であったが、中には心当たりがあるのであろう、暗い面持ちの者もいる。その顔ぶれだけ確認すると、ラルフは素早く三年の教室へ向かった。
「なぜアンジェリカは連れて行かれない?」
教室を出ようとしていたルイスを捕まえて尋ねる。一瞬驚いた顔をしたルイスであったが、すぐに事情を飲み込み平然と答える。
「アンジェリカ嬢は先週から学園の寮に入っている。ビューラー辺境伯と、その縁者の邸宅は押さえられるだろうが、もう関係無い」
「やっぱり全部知ってるんだね。ルイスがしていたのは、それ?」
「そうだ。あれにはまだ、聞くことがある。今連れて行かれるのは困るのでな。クレイル男爵、ビューラー辺境伯の両名に手紙を書いて入寮を勧めた」
早口で説明して去ろうとするルイスの腕を取り、再び尋ねる。
「ルイスは誰の為に動いている?」
「決まっている。クラウディアだ」
それだけ言ってクラウディアのもとへ向かうルイスを、ラルフは黙って見送った。
夜、屋敷でクリスを迎えたギョー公爵の顔には、疲れが滲んでいた。
「大変な騒動の最中にお時間を割かせてしまい、申し訳ありません」
「いえ、明日は私も朝から登城いたしますが、王太子殿下こそお忙しいのではないですか?」
「良いのです。今日のところは、信頼できる者に任せてきました。それより、公爵も気に掛かっておいででしょう。……クラウディアのことです」
「いやいや、国の一大事に娘のことなど」
「公爵。クラウディアとの結婚の件ですが、これを持って、前向きに、無かったことにしていただきたい」
「それは、もう、政略結婚の意味もなくなりましたし。しかし、前向きにとは?」
言われた言葉の意図を計りかねて、ギョー公爵が尋ねる。クリスは出された紅茶を一口飲み、ゆっくりと口を開いた。
「私は、非常に恵まれた環境で生きております。王家に生を受け、王位や親の愛情を争う兄弟も無く、自分の立場を危うく感じたこともなければ、何かが欲しいと飢えたことすらありません。たったひとつを除いて」
何を言おうとしているのか察したギョー公爵が、襟を正して次の言葉を待つ。
「クラウディアは本当に素晴らしい女性に成長されました。誰の手を借りるでもなく、自らの手で問題に対処する姿勢など、いつも感心いたします。入学当初は揉めることもあったようですが、今や、女生徒も男子生徒もクラウディアを慕う者は多い。私も、その一人です」
そこまで言って、一つ息を吐き、クリスは決意したように諦めたように、胸の内を吐露し始めた。
「私は、幼少の折より、ずっと『自分はズルをしている』と心に引っ掛かっていました。生まれ持った才覚、生まれ持った容姿、生まれ持った家柄。実力で得たものなど、私は何一つ持っていない。その上、皆が慕うクラウディアまで実力以外のもので手に入れてしまっては、私はこの先、自分に自信を持って生きることが出来なくなってしまいます。ですから、政略婚約を無かったことにしていただき、努力して、実力でクラウディアに選ばれた折には、公爵に改めて恋愛結婚のお許しをいただきたく思います」
その時、ギョー公爵の目の前に居るのは、お偉い次期国王陛下などではなく、ただの迷える若人であり、蝶になろうともがく蛹であった。