本能の犬
クリスが背中に手を回し抱き締めると、胸に顔を埋めた華奢なクラウディアの身体はすっぽりと腕の中に収まる。
「クリス様、苦しい……」
状況を理解していないのか、それとも、冗談で済ますつもりなのか、怯えているはずのクラウディアから出る言葉がなぜか呑気で苛立つ。わからせてやろうと意地になって、腕に力を込めた。実際には、クラウディア持ち前の自己評価の低さと、前日にあったカインとの出来事とが心のどこかに引っかかり、からかわれていると思い込んでいただけなのだが、クリスはそれを知らない。
「護身術を習っていたんだよね? 少しは何とかなると思っていた? でも、こうなってしまうと何もできないでしょう?」
「はい……」
抜け出そうと肩を揺らしてもがくクラウディアの身体が柔らかくて、その肩を噛みたいとクリスは思い、噛む代わりに、抱き締める腕に更に力を込めた。
「私、反省いたしました。今後は相手が誰でも、男性と二人にはなりません」
小さい声ながらきっぱりと言い切る健気さは愛おしいが、まだ逃げられると思っている内は許したくない。そのままクルリと身体を反転させ、さっきまで自分が座っていた机にクラウディアを座らせる。その体勢で机に両手をつくと、アイスブルーの瞳が目の前にくる。こちらが見据えると逸らし、すぐに口を見てしまう目。
「口元を見ては駄目だと言ったでしょう」
クリスの目もクラウディアの唇に引き付けられる。食べたい、という強い衝動に身を委ねたくなり、なんとか視線を逸らすと、噛みたかった肩がそこにあった。
「あなたはわかっていない」
もしかしたら、ただ、この行為を止めない為の言い訳だったかもしれない。一度抱き締めてしまった身体への執着心が収まらず、疼く。片手を首の後ろに回すと、背中を反らせて逃げようとするクラウディアをそのまま引き寄せて首に噛みついた。小さく悲鳴を上げ、身を捩って逃げようとするのを、逃がさず勢いで押し倒す。
机の上に身を投げ出したクラウディアの両手首を掴み、自由を奪って見下ろすと、恐怖を滲ませ青ざめながらも気高さを失わない美しい人がいて、思わず見とれた。
(この女を粉々に壊して、大事に大事に、自分だけの宝石箱に閉じ込めておきたい)
そんな願望が沸き上がり身震いする。組み敷いて、白く細い首をもう一度噛むと、既にその甘さを知っている舌は歯止めが利かない。本当は別の場所を欲していたけれど、まだ微かに残る理性がそれを阻止した。しかし、クラウディアが時折漏らす小さな悲鳴や息、痙攣したように強張る柔らかい身体、逃れようとする手首や肩の小刻みな抵抗が、残った理性を削いでいく。もっと、もっと、と肥大した本能が呻く。「このまま口を犯したら」と想像すると堪えられなくなり、白い首筋に唇を這わせ舐め上げる。が、この状況ではそこで終われなくなると予期した最後の理性が、方向をねじ曲げさせ、耳朶を噛んだ。その葛藤すら甘く、頭の芯を痺れさせる。
本能の忠犬となりかけたクリスに理性を取り戻させたのは、びくりと肩を震わせた後、はらはらと涙を流し始めたクラウディアの姿であった。段々と冷静さが戻り、拘束していた手を離すと、未練がましく執着する自分の身体をゆっくりとクラウディアから引き剥がす。
「行ってください」
起き上がって机に片手をついたまま、掠れた声でそれだけ絞り出した。
クリスの身体の下から抜けた出したクラウディアは、飛び退くようにドアの前まで行くと、そこで乱れた髪を手で梳き撫でつけながら、なぜかクリスに向き直ってペコリと頭を下げ、世界史準備室を出て行った。
クリスはさっきまでクラウディアがいた机に、どさりと力無く腰を下ろすと、くたびれた年寄りのように背中を丸めた。実際、とても疲れていたが、何より……
(やってしまった!)
俯いて両手で顔を覆うと、最後に見たクラウディアの涙が目に浮かぶ。
クラウディアの気持ちを無視して行為に没頭してしまった絶大な本能の力に、クリスはショックを受け、硝子の如き自分の理性と、しでかした事の重大さに、ただただ絶望し、後悔の沼に身を浴すしかなかった。
フォローは次回、ラルフに任せます。