ノールックのボディブロー
翌朝、カインは日課となったアンジェリカの急襲を受けていた。
「どうして無視するの? カインは私を好きでしょ?」
廊下で呼び止められ、なぜこの女は自分を呼び捨てにしてくるのだろうと苛立つ。
「失礼します」
否定しないのは関わりたくないからなのだが、アンジェリカには通じない。
「あなたは私を密かに、ひたむきに、思っているの。知ってるんだから。クラウディアに近付いたのは、弱みを探るためでしょう? 私のために!」
立ち去ろうとして背を向けたカインの手を掴んで引き止めたアンジェリカが、そのまま腕に絡みついてくる。両腕を閉じて胸を寄せ、カインの腕に押し当てながら、である。その仕草が下町でよく見かける娼婦のようだなとカインは思い、ありもしない酒臭い体臭が鼻につく気すらした。
「ちょっと、何を言っているのかわかりません。急いでおりますので」
無表情な中に多少の嫌悪を滲ませながらそれだけ言うと、絡みついた女から腕を引き抜いて立ち去った。
「あなただけは絶対に私のものよ! あの女には渡さない」
背中に投げつけられる妄言を無視して教室に入ると、窓際の席に目を向ける。そこに、カーテンの隙間から差す陽光を浴びる、輝くように清廉なクラウディアがいた。騒がしい教室の中、一人、本を読む彼女の周囲だけが静かで美しい。本当はそのまま、その人の傍に侍りたいし、行けば温かく柔らかい笑顔で迎えてくれるのも知っている。けれど、敢えて距離を取る。自分を特別だと慢心したくなかった。
(した結果があれだ……)
大概のことでは冷静でいられる自信があったのだが、クラウディアの無自覚の魔性に崩された。その敗北感が甘く後を引くのが、尚悔しい。また崩されたい、もっと崩されたいと願ってしまう自分では、まだ敵わない。しかし、この上下をいつか覆してやったら、この清らかな人はどんな風に狼狽し、どんな風に泣くだろうかと、想像すると震えた。
カインは、自分が持つ慢心について、もう一つ心当たりがあった。
(運命共同体……)
クラウディアが口にしたこの言葉は、面食らう程に感動的であった。ギョー公爵より、マクスウェル家へ真珠の養殖事業の話が舞い込んだ時から、ずっと持っていたカインの思いを代弁してくれていた。
実際は、ギョー家にとっては数ある内の一つに過ぎず、マクスウェル家にとっては唯一縋る希望なのだ。決して、運命共同体などではない。それを、なんの気負いもなく当たり前の事としてクラウディアが言うのだから、ずっと同じ気持ちでいたようで、嬉しかった。
(意識せずにするのだから。あの方のああいうとこ、本当にズルい……)
昨日の出来事を思い返すと、溜め息しか出ない。しかし困ったことに、その溜め息も甘く、頬を緩ませるのだ。
「なんか、色っぽい顔してるぅ」
いつからそこにいたのか、ラルフがカインの背後から肩に手を置き、耳元に口を寄せて呟く。
「耳に息かかるの気持ち悪いんで、止めてもらって良いですか?」
眉根を顰めて、肩に乗せられた手を払う。胸に広がっていた折角の甘い微熱に水を差されたのだから、不機嫌にもなる。
「今の視線、結構あからさまだったよ。やっぱりクラウディアと何かあった?」
「何で視線まで追ってるんですか」
「カインの視線を追ってたわけじゃないけどさ。クラウディアに集まる視線は、全部、元を辿ってるよ。誰がどのくらいの思いでクラウディアを狙ってるか、把握しておかなくちゃ危険でしょ?」
「当たり前みたいに言わないでください。そんな野生動物のようなことするの、あなただけですよ」
「そうかなあ? このクラスだけでも、本気で狙ってる奴、あわよくばを狙ってる奴、諦めて崇拝してる奴がどれだけいると思ってるの? クラウディアは自覚無く無差別に攻撃するから始末が悪いんだよぉ」
「攻撃ですか?」
「そう。アンジェリカくらい分かりやすく仕掛けてくれたら防御するんだけどね。クラウディアは意識せずだから。常にノールックで前触れなく殴ってくるんだもん。避けようないじゃん。しかも、一発一発のパンチが重たくて、脳天突き抜けるし、ボディにも効くし、足にくるよねぇ」
「何の話でしたっけ」
「殴られた奴も、流れ弾当たっただけの奴も、みんな狂わせちゃうんだから。手に負えないよぉ」
「それは、わかる気がします」
実は昨日の一件以来、カインはレオン・ビューラーの評価を変えていた。あれは、クラウディアの魔性に当てられただけの、単なる気の大きい男だったのではないかと。まぁ、ふられても尚、恥ずかしげもなく粘つく視線を貼り付けてくるくらいの人物である。同情するには至らないが。
「眩しいよねぇ。神々しいよねぇ。クラウディア。望みなんか持たずに遠くから見てるのが一番安全で幸せで良いよねぇ」
余所に気を取られて言葉が途切れた瞬間、申し合わせなくとも二人揃って自然にクラウディアへ目をやっていた。今はミザリーと何か談笑し、周囲に暖かい光を撒き散らしている。
「それ、誘導しようとしてませんか」
「違う。自分に言い聞かせてるんだよ。だってさぁ…… ねえ、オレの見立てでは、クラウディアを一番思ってるのって誰だと思う?」
「さあ」
「クリス王子」
その答えは、少し意外だった。自分かラルフであろうと思っていたのだ。
「へえ……」
「全然引く気無いって顔してる。強気だなぁ、カイン君は」
「選ぶのはあの方ですから」
「あーあ、カインを下ろすのは無理か。手強そうな奴は闘う前に排除したいんだけど」
「もう闘ってます」
その言葉を聞いたラルフが、張り付いたような笑顔で殺気を放つ。
「負けないよ? それに、あのお方もそろそろ動くんじゃない?」
「構いません。私も負けるつもりはありません」
本気の殺気に一切怯まず毅然と言い切るカインに面食らったラルフが、ぷっと吹き出した後、抱きついた。
「オレ、カイン好きー!」
「ちょっ! 止めてください」
そんな二人の様子を遠巻きに見て微笑むクラウディアであった。が、数時間後、人気の無い教室である人に壁ドンされて怯んでいた。