狸か猫か
放課後、学園の敷地にある植物園の温室から立ち去る一人の女生徒の姿があった。その背中を物陰から見届けたラルフが、まだ温室内に止まる男に小さく声をかける。
「ねえ、それって、どっちがどっちにハニートラップ仕掛けてるの?」
「! ……ラルフか」
人が近寄ってきた物音も気配もなく突然に声をかけられたルイスは一瞬身構えたが、すぐにその、人好きする見慣れた笑顔に緊張を解いた。
「いつからそこに居た?」
「二人がイチャつきだす前」
「イチャついてはいない。悩みを聞いていた」
「お前の太腿に手を置いてね。手練れた女が男に取り入る常套手段って感じ」
「そうだな」
否定しない所に、ルイスの意図が滲んでいた。この件に関しては口出しせずにいようと考えていたラルフであったが、どうやら関わってほしいらしいと受け取る。
「で、何者かわかった? あのピンクの髪の女」
「お前はどこまで知っている?」
「今のあの女がヤバいってことだけ。過去は全然わからなかった。でも、それが不思議なんだよねぇ」
「ああ。ピンクの髪の娘など知らない、そんなものはいないと、誰もが言う。……あの時と同じだ」
「捜したよね。八年? いや、もう九年前になるのか」
「アンジェリカはクレイル領から離れ、父親の正妻の追っ手を逃れて母親と二人で隠れ生きてきたのだそうだ。この国で」
「へぇ。納得……」
続く言葉は、二人とも紡ぐ気はなかった。この国で後ろ盾の無い女性が生きる方法は多くない。母娘二人。娘の髪はこの国では珍しいストロベリーブロンドとあっては、隠れ住むのも容易でなかった筈だ。何者かからの支援がなければ。
「弱みを握られてるわけだ。ビューラー辺境伯に。でなきゃ、正妻の方の親族が、好き好んで教育係を引き受けたりしないもんね? それとも、わざと引き受けて虐待でもしてるの?」
「流石にそこまでは口を割らないが、ビューラー家より上の家格の息子を狙っているのは確かだな。それと、なぜかカイン・マクスウェルか」
「何でだろうねぇ。マクスウェルは伯爵家と言えど、早いとこカインに名代を継がせないと没落が見えてるような家なのにねぇ」
「たんに好みだとか」
「したたかで計算高い女が? ないない!」
「カインは良い男だよ。我が父上も買っているようだ」
「あいつは、相当な狸だよねぇ」
「お前は狙われたことはないのか?」
「ピンクに? 一度あるよ。転んだふりして腕に抱きついて、胸を押し当ててきたかな」
「それはまた、強烈だな。困っただろ?」
「別に? 気持ち悪いから、絡みつかせてきた腕を無言で外して無言で立ち去った」
で、その後、消毒と上書きを兼ねてクラウディアの頭を撫でに行ったのだが、それは伏せておいた。
一方その頃、既に人気の無い一年生の教室には、ひとつの机を挟んで額を突き合わせ、あーだこーだと品質の悪い真珠の利用方法や今後の商品開発の方向性について論じる、色気の無い男女の姿があった。
「ダメだ! 良いアイディアが浮かばない」
「申し訳ありません。付き合わせてしまって」
「いいえ。これは、ギョー家の利益にも繋がることですもの。一蓮托生ですね。あ、一蓮托生というのは、東の方の国の言葉で、えっと、運命を共にする者同士のことです」
運命を共にする者、の言葉に少々面食らった様子のカインに気付きもせず、クラウディアが話を続ける。
「話は変わるんだけれど。あのぉ…… えっと、特別な意味は無いのよ。無いんだけど、あの…… アンジェリカさんとよく話していらっしゃいますよね? いつも何の話をしているのかなって。本当に、特別な意味は無いのですが」
クラウディアが連呼した言葉に、浮つきかけていた空気が霧散した。「特別な意味が無いのを残念に思う相手がいることなど、この人は考えもしないのだろう」と、分かってはいても。
「あなたには関係の無い用件です」
突き放す言葉を投げつけられ、一瞬、傷付いた表情を見せたクラウディアであったが、眉間に力を入れて堪えていた。
「すみません。立ち入りました。関係、ありませんでした。……いえ、そうではありません。あの。もし、お二人が大した用件もなく言葉を交わし合う関係なのでしたら、私がカインと二人で出かけたり、こんな風に二人で居るのは申し訳ないのでは、と思いました……」
「一応、そういう意識はあるのですね」
その言葉が飲み込めず、クラウディアが困ったような顔をする。やはり、あまりよく理解していないようだ。
「私と誤解されるのは、お嫌ですか?」
「いえ、嫌じゃないです! そうではなくて……」
「では、誤解じゃなくしましょうか」
「……?」
机の上に置かれていたクラウディアの無防備な手首を、ギュッと捕まえた。ただそれだけのことでも、心に準備の無い者を怯えさせるには十分であった。
「あ、あの…… 放し……」
掴んだ手に力を込めると、一瞬で耳まで紅潮させたクラウディアが、唇を微かに開かせたまま、泣き出しそうな潤んだ目で向かい合った男の口元を見つめた。それは単に、正面から相手の目を見るのが苦手なクラウディアの癖が出ただけなのだが、カインはその癖を知らない。
仕掛けたのは自分であった筈なのに、クラウディアに見つめられた唇は全神経が集まったように熱を持ち、意識が持って行かれる。そんなつもりはなかったのに、気付けば、カインもまたクラウディアの唇を凝視していた。
負けそうになる自分を、グッと唇を噛んで振り切る。目を閉じ、状況を整理して、ひとつ大きく息を吐きながら、相手の力を見誤って図に乗った行為を猛省した。これでは、クラウディアを舐めるように見ていたレオンと何も変わらない。
「冗談です」
掴んでいた手をパッと離し、何事も無かったかのように嘯く。クラウディアは俯くと、ゆっくりとした動作で手を引っ込め、自由になった手首をもう一方の手で掴んだ後、すっと両手を机の下に隠した。
「……カインの冗談は意地悪です。ラルフくらい分かりやすい、軽いものでお願いします」
不意に他の男の名を出されたことに、苛つく。
「あの人は、猫被りですからね」
その言葉の意図も分からない様子で、クラウディアは戸惑うように小首を傾げるのであった。