密室の葛藤
チェスサロンからの帰り道、ラルフの手配した馬車に揺られ窓の外を眺めながら、カインは幼い日の自分を思い出していた。
◇
物心ついた時にはカイン・マクスウェルは犬が嫌いであった。館に来る借金取りの老婦人が、よく鳴く小型犬を腕に抱き、ジャラジャラギラギラと巨大な宝石や金属のついた手でそれを撫で回しているのが怖かった。
その頃は金策に走り、あらゆる伝を使って他の貴族家に取り入ろうとする父に連れ回され、様々な貴族の邸宅へ参じていた。詳細な状況はわからないながら、家が落ちぶれ、自分たちが惨めな身の上だというのはひしひしと伝わってきて、居心地が悪かった。誰だかの紹介でギョー公爵家の門を潜った時もそうである。元は王家の離宮であったという立派な屋敷に、よく手入れされた庭園。このような大貴族様では大して親しくもない者の訪問などきっと迷惑だろうと、皆から離れて一人肩身を狭くして、晴れた庭をぶらぶらと歩いた。お偉いさんに媚びる父親の姿を見たくない気持ちもあった。
そんな暗澹たる思いのカインの耳に入ってきたのは、共にきた他家の子供たちの悲鳴。何事かと声のした方へ走って行くと、池に落ちて慌てふためく少年たちとその傍に佇む一人の少女の姿が目に入る。
(あれは、人だろうか……)
思わず息を飲んだところで、カインに気付いた少女と目が合う。凝縮した陽光を宿したような白金の髪、空気に透ける白い肌、身に着けている水色のワンピースと同じ色の瞳もまた、きらきらと光を閉じ込めた宝石のような、存在自体が光の粒子のような少女。
その少女が、カインと目が合うとスッとしゃがみこみ、脚に絡みつくようにじゃれていた犬をひと撫でして、言う。
「お行きなさい」
吠えながら真っ直ぐ自分に向かって走ってくる犬。それはあの借金取りの成金ばばぁのと同じ犬種の小型犬で、歯をむき出しにして威嚇しながら迫ってくるものだから、パニックに陥った。借金取りのばばぁか、不甲斐ない父親か、光の道を歩く天使のような子か、自分が何に追われているのかわからなくなって半狂乱になって逃げ、すぐに追い詰められて転ばされた。顔の近くでがちがちと鳴らされる歯の音と、唸り声、遠くで楽しそうに笑う少女の声が混ざり合って頭に響いた。
その質の悪い頭痛のような感覚を、ただ「畏怖」であると幼いカインは思い、謝罪に来た光の子をひたすらに避けた。そうしている内に、ギョー公爵家から共同で事業を立ち上げる話が舞い込み、しかもそれは、マクスウェル家が一方的に得をする破格の待遇であると聞かされた。家の者は皆一様に喜んでいたが、特に父親は、「お前が謝罪を受け入れず、ごねたからだ。良くやったな」と褒め、カインの頭痛は酷くなった。
王都にあった祖父時代の別邸を売り払い、マクスウェル領へ引き上げた後もギョー公爵家との付き合いは続き、時たま顔を合わす光の子は、年を増すごとに輝かしい美貌を備えていった。黒髪のカインは、彼女と自分とが表裏で一体となっているようだと感じて誇らしく思い、一方では、会うたびに話しかけたそうにしている彼女を、「あの父の庇護の下にいる自分では恥ずかしい」という理由で避け続け、それは、学園に入ってからも続いた。
頑なに凪いだカインの心に波紋を投じたのは、デビュタントボールのあの日、王太子のエスコートで会場に現れた彼女を見て芽生えた、猛烈な嫉妬心であった。会場の全ての光を閉じ込め内側から輝くようなその姿に、初めて会った日のように息を飲んだ。そして、どうして他の男と対になっているのかと、湧き上がる猛烈な負の感情に身を焦がすと共に、漸く気付いた。光の子などではない、自分はもうずっと、悪魔のように残酷な女神に魅入られていたのだと。
それでも尚、クラウディアに話しかけるのは、学力試験の結果を待たねば出来なかった。主席を取り、彼女より秀でた部分が出来たのと同時に、能力を示し無能な父を切り捨てる言い訳を得て、カインは動いた。
ちょうどその日に、アンジェリカが味方を得ようとカインに話しかけたのは全くの偶然であり、アンジェリカにとっての不運であった。クラウディアに話しかけるタイミングを見計らっていたカインにとって、間に割って入ったアンジェリカは、ただ邪魔なだけの障害物に過ぎなかったのだ。
◇
「この気持ちも、残滓だと言うのでしょうね。この方は」
自分に向けて身を投げ出し、太腿を枕にして眠る女神の頭に手を置きながら、ぽつりと呟く。その目が頑なに外を凝視し続けるのは、不躾な視線を落としたくなる自分を抑える為であった。