龍の鱗に触れました
今まで、こちらから行っても逃げまくられていただけに、目が合ったのは初めてかもしれない。それが、こんなに凄い圧で睨まれるなんて、と焦っていると、抗議しに来るかと思われたアンジェリカは、そのまま背を向けスカートを翻して食堂を出て行った。
「待って! ごめんなさい。私、ちょっと……。すぐ戻ります!」
急いで席を立ち、走り去る足音を追う。アンジェリカも必死に逃げるが、如何せん装飾だらけのスリッパみたいな布の靴。こちらはローファーとなれば、勝負あった。どんどん差を詰めて、階段で追いついた。
「待って! アンジェリカさん」
「なんなのよ。あんた、さぁ、人の後をちょろちょろと。何か言いたげな顔して……。そんな顔しても可愛くないんだよ! きゃあっ!!」
二、三段登ったところで、追跡者を振り払おうとしたアンジェリカが階段を踏み外した。
「アンジェリカ!」
咄嗟に手が出た。落ちてくるアンジェリカを抱き留める形になり、そのまま受け身を取って、二人して床に転がる。柔道やってて良かった。
「何してるんですか?」
転がったまま、息を切らして呆然としていると、頭の上からハスキーな声が降ってきた。仰ぎ見ると、長い前髪の下から黒曜石の瞳が心配そうに覗き込んでいる。
「あら? 追ってきていたんですか?」
「気になったので。迷惑でしたか?」
「いいえ。助かりました。カイン、アンジェリカさんを医務室に運んでくださいませんか」
「平気よ。放っておいてくださらない?」
「振り向きざまに階段を落ちたんですよ。足首を捻ってるのではないですか?」
上半身を起こしたアンジェリカが表情を固くし、ぐっと言葉に詰まる。その手が足首を隠すように動いた。
「どうぞ」
アンジェリカに背を向け、カインがすっとしゃがみ込む。驚いた顔をした後、一瞬、ばつの悪い様子を見せたアンジェリカであったが、案外素直にその背に身を預けた。
目の前で繰り広げられる、恋愛イベントのような光景にちょっと胸が高鳴る。美男美女だし、そもそもヒロインである。絵にならないわけがない。やっぱり、恋愛は他人事であればこそ、安心して楽しめるというものだ。
医務室へ向かう道中は、かなり静かなものであった。アンジェリカも私も、下手に口を開くと、カインに聞かせてはいけないことを口走りそうだったからだ。
三人とも押し黙ったまま医務室にたどり着き、手の塞がった二人に代わってドアを開ける。
「誰も居ないようですね。私は校医を呼んできますので、お二人はここでお待ちください」
ベッドに座らせるようにしてアンジェリカを下ろすと、カインは廊下へ出て行った。
「あの……。しつこく追いかけたりして、申し訳ありませんでした。怪我させるつもりはなかったんです」
「なんなのよ、あんた。ついて来ないでくれる?! あんたみたいなモテない陰キャのキモオタと話すことなんか無いのよ!」
ああ、久しぶりに触れる日本文化、懐かしい。
◇ ◇ ◇
と、いうわけで、回想終わり。そのあんまりな言われよう、あまりのショックに、なぜこんな状況になったのか、朝からのことが走馬灯のように廻ってしまった。
「キモオタって、女子に対しても使うんでしたっけ?」
「知らないわよそんなの」
酷い。理不尽だ。
「やっぱり、アンジェリカさんも転生者なんですね」
「だったら何?」
「私、アンジェリカさんの邪魔をするつもりはありません。私には特別な恋愛関係の相手は居りませんし、推しが誰かを教えてくださったら、全面的にアンジェリカさんを応援するつもりです」
「なぜそんなことするの?」
「断頭台には行きたくありませんから」
「今のあなたと、今の私なら、何がどう転んでもそうはならないでしょ? バッッッカじゃないの?」
吐き捨てるように言われる。
「まぁ、それは、ずっとそう思っていたので。確かに、今となっては建て前である感は否めませんね」
「何が言いたいの?」
「アンジェリカさんは、何か困っているんじゃないですか?」
突然の問いに面食らった様子で、アンジェリカが目を見開く。しかしすぐに、さっきまでしていた以上の憎々しい表情で私を睨みつけた。
「あんたなんかに……同情されたくない! 同じ転生者なのに、なんで私は……。なんであんただけ……! 推しがいるなら譲ってやる? 施してくれるつもり? ……あんた、何様なのよ?! ズルいわよ。許せない!」
膝の上に置かれた手が固く握られ、ブルブルと震える。唇を噛み締め私を睨み続ける美しい顔が、醜く歪む。
「何一つやるものか。あんたのものなんか……全部奪ってやる」
怒髪天を衝く、とは、こういうことであろう。或いは、逆鱗に触れる、であろうか。最後は静かに呟いた、その言葉、その声に、全身が粟立つ。私は、自分の相手を見誤り、対応を誤ったことを瞬間的に理解した。