クリス・ラインベルグの苦悩【王子様視点】
幼かったあの日のことは忘れない。
自分が躍起になってルイスと対抗したせいで、クラウディアを恐ろしい目に遭わせてしまった。
ぼろぼろに傷付いて帰ってきたクラウディアが最初に声をかけたのは、自分でなく、兄君のルイスでもなく、ラルフだった。
思わぬ相手への敗北感と、激しい嫉妬心。
クラウディアを恨んではいない。あの場で最も立場が弱く、また、責任を負っている者はラルフであった。一番に気遣う相手として妥当だ。自分の危機的状況であったにもかかわらず、他者を救う一手を打つ。その精神力と判断力に舌を巻いた。この人こそ王の隣にいるべき女性だと確信し、強烈に憧れた。
……で、あるのに、婚約を取り消さなくてはならなくなり、このことでは、父に初めて反抗した。聞き入れられず、自分の無力さを心底から呪った。挨拶に来てくれたクラウディアに合わせる顔がなくて、目を逸らした。そして、そのまま会えなくなった。
ルイスとはただのライバル関係でなく、クラウディアに対する同じ思いを抱えた同士となった。共に学び、かの人に見合う自分であろうと努力しながら、ルイスの話に時たま出てくるクラウディアの名に胸を高鳴らせ、ルイスを介することで感じられるクラウディアとの繋がりに、蜘蛛の糸のように縋った。
心待ちにしていたクラウディアの学園入学式当日。普段なら無視する筈の「新入生の女の子を見に行こう」と言うレオンの提案に、渋々付き合う体で乗った。本心では、早く、一目会いたいという思いが募っていた。
気付かないわけがない。見間違うわけがない。眼鏡なんかでは隠しようもない。初めて会ったときのようなふんわりとしたのとは違うけれど、同じく後ろに一つの三つ編みにされた白金の絹糸。丸みを帯びた身体はほっそりと伸び、ぴんとした背筋と手足の線の細やかさには気品が漂う。光に溶けてしまいそうな儚げな姿でありながら、強い意志を持つ純度の高い宝石の瞳。会いたいと、ずっと願っていた。どんな娘になっているだろうと想像した、そのままの、いや、それ以上に美しい真珠姫。……が、視界から消えた。
あ、と思ったときにはレオンが彼女に駆け寄り、手を差し伸べていた。
「絶景! 美しい! 脚最高! でしたよね、クリス様」
と、レオンは一日中言っていたけれど、正直、生のクラウディアにドキドキし過ぎて直視もできなかった。取り敢えずレオンはその内締めてやろうと決意したが、しかし、今は、レオンを泳がせておけばクラウディアに会える機会ができる。と、思ったのだが、こっちはそんな始末でまともに目も合わせられないと言うのに、レオンの馴れ馴れしさときたら酷いもので、すぐに我慢ならなくなった。
それでも、一目会いたい。できれば挨拶したい。普通に挨拶が交わせるようになったら、あの時のことを謝りたい。しかし、怖いのだ。
思い返してみれば、クラウディアは自分よりラルフと気が合ってはいなかったか? 自分より、兄より、ラルフに声をかけたのは、単にラルフの方が好きだったからではないのか? あの時、クラウディアはラルフの頭を撫でたが、自分には彼女の方から触れてきたことは無い。
気掛かりは、もう一つある。領主の子の友達というだけで危険な目に遭うのだ、もしそれが国王の子の婚約者であったなら、もっと危険は増えるのではないか? 大切な人を自分との関係性故に危険な目に遭わせるなど、あってはならない。確実に守れる状態になるまで、自分がクラウディアを大切に思っていることは、他者に知られてはいけない。
そう、思い込んでいた。
幼い頃のことである。しかし、幼かったからこそ、その経験は心に深く刻み込まれ、その後の人格形成を歪ませた。本来、ルイスとの健やかなライバル関係により切磋琢磨し、大した挫折無く真っ直ぐ伸びやかに育つはずだったものが、道を外れたのだ。
……シナリオを外れ、人見知りならぬクラウディア見知りを激しくこじらせた男が一人、密かに生まれていたのである。