崖下の一夜
声を掛けられたわけじゃない。何をされたわけでも聞いたわけでもないが、その目が、口が、全身から発せられる緊張感が、こちらを意識していると報せていた。
私はそのまま、後ずさって道から外れると、回れ右して一目散に駆け出した。
すぐに、笑いながら追ってきた男の手が迫り、大きな手が頭上を掠る。間一髪でかわしたけれど、髪留めが飛ばされた。思わず振り返ると、男は屈んで、髪留めを拾っているようだった。もう一人の男は、その行動を口汚い言葉で咎めながら、ようやく私を追い始める。その統制のなさで、唐突に悟る。
あれは、金目当ての誘拐犯だ。王子でなく私を狙ったのが証拠。たぶん、麓の街でラルフ様と一緒にいるのを見て、どことは知らないが貴族の娘だと当たりをつけたのだろう。他家の娘が自領で誘拐されたとあっては、メルティローズ伯爵の面目が潰れる。メルティローズ伯爵に身代金を要求すれば良いのだ。いや、そんな面倒でリスクの高い事はしないかもしれない。単純に、売れば良いのだ。或いは、ただの物取りかもしれない。だとしたら、私が何者であるか、ラルフ様と一緒にいたのが誰か、知られてはいけない。自分達の傷つけようとした相手、犯した罪の意外な重さに気付いた男達が、全てを消して清算しようとするかもしれない。
逃げて! 逃げて!
木の間をぬって、走って、走って、息ができなくても、走って……
「きゃああああああ!」
突然足元が崩れる。そのまま崖から転がり落ち、姿の見えなくなった私を、盗人どもが崖の上から探している。崖を転がってすぐ、途中の窪みに落ちた私は、身を縮めてその様子を窺っていた。
男達の足音が、声が、遠のいていく。その場に居続けるのも怖かったが我慢して、身体に異常がないかを確かめながら、男達が完全に居なくなったと思えるまでの時間を潰す。足首を捻ったようで痛んだし、あちこち打ちつけて身体中に鈍い痛みがあった。擦り傷、切り傷は数え切れない。たぶん、顔も擦りむいた。ほどけた髪の毛には小枝や葉っぱがからまっている。それでも構わない。それで済んで良かった。
助けは、来るだろうか。自分で這い上がった方が良いだろうか。
しかし、身体が動かない。痛みのせいもあるが、何より、恐怖で足がすくんでいた。今にもあの大きな手が背後から現れて、私の髪を、腕を、捕まえてしまうかもしれない。捕まったら、こんな痛みでは済まないものが待っている。そう思うと、一人では怖くて身動きが取れなかった。膝を抱えて座り、じっと、探しにくる人を待つ。こんなにも自分を弱く、小さく感じるのは、クラウディアも『わたし』も初めての経験だった。
もうじき、だんだんと日が暮れてくる。意を決して、崖の上に這い上がろうとしてみるが、案外、捻った足の塩梅が良くない。諦めて、夜を明かす覚悟で再び身を縮める。
(誰か、助けて)
こんな時、脳裏に浮かぶのは、やはり両親の顔だった。
(助けて、お父様)
私は、あの日のことを思い出していた。あの日、私……クラウディアは、朝からとても機嫌が悪かった。前日、お父様が新しい罠の仕掛けを教えてくれると約束していたのに、朝起きると、お父様は急なお仕事で出掛けられたと、起こしに来た侍女に教えられた。私は、泣く代わりに洗顔用の水を彼女に向けてぶちまけた。
朝食の席では給仕係が「楽しみにしてらっしゃったのに残念でしたね」なんて言うものだから、「残念なんかじゃない! 楽しみになんかしていなかったわ!」と、熱々のパンを投げつけて席を立った。
私の機嫌が悪いのを知ると、教師達は腫れ物を触るようにビクビクするものだから、「ならば期待に応えてあげよう」と首にしてやった。
午後になると下位の貴族たちがご機嫌伺いにやってきた。「高位貴族の傍にはべって、おこぼれを狙う虫貴族ども。おまえ等が能無しだからお父様はいつでも忙しいのだ」と思うと腹が立って、息子どもをコテンパンにしてやった。高位の貴族におべっか使うより、自分の努力で領地経営した方がましだと叩き込んでやりたかった。
夕食の時には、朝からの悪事を一つ一つ思い返しながら「ほら、私はいつもどおりの『魔王』だ。傷付いてなどいるものか」と腑に落とした。
クラウディアは、ただ、我慢したのだ。方法は良くなかったが、まだ七歳なのだ。それは、『わたし』に押し潰され消えても良い程の悪だったろうか。
『そうなの? それは残念』
突然、ラルフ様の言葉が過った。あれは、『もう改心したので以前のような(クラウディアのような)ことはしない』と言ったときだ。考えてみれば、『わたし』の記憶が蘇ってからというもの、それ以前のクラウディアを惜しまれたり褒められたりしたのは、それ一度きり。ラルフ様一人だけだ。
一人だけ。でも、きちんと認められていた。なくなったら残念な存在だと、思ってくれる人がいた。
見上げると、星が輝き始めていた。男達はもう、もどってこないだろう。安堵した私は、先程までの極度の緊張と恐怖で張り詰めていたものがぷつりと切れ、そのまま、深い眠りに落ちてしまった。