【最終話】恋に沈む
涙が零れるままに暫く泣いていると、ドアが小さくノックされる。入るよう促すと、顔をのぞかせたルイスは、ぐずぐずと鼻を啜りながら子供のように泣く妹の姿に取り乱した。
「大丈夫か? 泣くほど具合が悪いのか? どこが痛い? 今医者を呼ぶからな!」
そばに駆け寄り、顔を覗き込み、額に手を当てて熱を確かめる心配そうな兄の姿に面食らう。ルイスがクラウディアに対してこんな風に臆面を失くすのは久しぶりのことであった。
「大丈夫。ちょっと気が滅入っただけ。ちょうど、お兄様に話を聞きたかったところなの」
医者を呼びに部屋を出て行こうとするのを、人差し指を捕まえて阻止する。
動きを止められたルイスは素直にクラウディアへ向き直り、ベッド脇に置いてあった椅子に大人しく座った。
「どうした?」
「お兄様は、いつの間に恋に落ちたの?」
妹からの意外な質問に面食らった様子の兄に続ける。
「アンジェリカとは何か、ある意味で好敵手のような関係なのだと思っていたわ」
「ああ。アンジェリカか」
「他に誰か?」
「いや。……そうだな。恋には落ちていない。クラウの言う通り、好敵手として良い関係を築いている最中というべきか」
頭上に疑問符が浮かぶ。もっと甘い関係に見えるのだが、そう尋ねると兄は簡単に否定した。
「狸と狐の化かし合いだ。しかし、まあ、面白くはある」
「なんだか不誠実のようだわ」
「今はそれで良い。お互い、恋慕は無いが愛情はある。……私もアンジェリカも、心に抜けない棘の刺さった人間だ。すんなり恋に落ちることなど出来ないんだよ」
ルイスの棘は妹に対する歪な愛情であったが、そこは伏せてもクラウディアは納得気に頷いた。男性への偏見と不信感というアンジェリカの棘の方に気が向いていたからだった。そんな妹の様子に、ルイスは安堵とも諦めともつかない吐息を漏らす。
「私の人生で文字通りに落ちた恋は、一度だけだ。その恋は叶うことは無いし、今後、同じような思いを抱く相手は無い」
あまりの伝わらなさに、伝える予定の無かった言葉が口をついて出た。
「涙をぽろぽろと流して震えていた、悪鬼の薄い肩が忘れられない。あの時から、他の誰かが入り込む隙など無いほどに特別なんだ」
そう言ってクラウディアを見据えた目は「兄」のそれと言い訳するには熱っぽ過ぎた。
それでも普段通りなら、誰のことか分からないと言った反応をするクラウディアであったが、今回は様子が違った。乞うような兄の瞳を正面から見据え、言葉を噛み砕き、飲み込み、一拍おいてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私は、お兄様の大袈裟な讃辞を身贔屓だと聞き流していたけれど、それでも、いつも自信を貰っていたわ。讃辞の内容にではなく、お兄様が注いでくれる真っ直ぐで雑味の無い愛情が、いつも背中を押したくれた」
「クラウ……」
「この先、我が身がどこにあろうと、変わらずお兄様は私の特別な人よ」
そこまで言って笑顔を向けたクラウディアの頭に、ぽん、とルイスの手が乗せられる。そのまま、ぐりぐりと撫で回された。
「知ってる」
呟いたルイスは、悲しいのか照れているのか分からない、クラウディアの見たことがない笑みで一瞬顔を歪ませた。
「休んでいろ。まだ熱が高い」
撫でられてぐしゃぐしゃになった頭から手を除けると、ルイスは静かに立ち上がった。
部屋を出ると、腕組みしたアンジェリカがドアのすぐ横の壁に背を預けて待ちかまえていた。
「気持ち悪い」
兄妹のやり取りを聞いていたのであろう。率直な感想を述べる。
「気持ち悪いことを言わせるために、連れてきたのだろう?」
「実際に聞いたら、想像以上に気持ち悪かった」
「ああ、そうだな」
意に介さず歩きだしたルイスの涼しげに微笑む横顔に、アンジェリカは「ムカつく」と小声で毒づいたが、その顔に浮かぶ拗ねたような表情は、不快を示すものではなかった。
◇
西日の差す放課後の教室。並んで座る二人の人影があった。
「油断しました。まさか補習の課題を出されるとは。学園なんて人脈を広げるための社交場程度の意識で存在してるのだと思っていたわ……」
「まぁ、そんなもんでしょうけどねぇ。さすがに、ここのところ休み過ぎてましたからねぇ」
「カインは補習を免れたのね。ズルいわ」
「ちゃっかり…… しっかりしてるよねぇ」
会話が途切れると、ペンを走らせる音だけがカリカリと響く。重なり合う二人の音を、クラウディアは急かされるように感じ、ラルフは心地良く聞き流していた。
「終わり! ラルフはあとどれくらい?」
「待っていなくて良いですよ。オレが提出しておくので、置いて帰ってください」
「ううん。少し話していて良いかしら? 邪魔じゃなければ」
「それ、書きものの片手間に聞いて良い話ですか?」
手を止めたラルフが、顔だけクラウディアに向き直る。続く沈黙に余計に急かされている気がして、クラウディアは焦ってしまう。
「片手間が良いの。勝手に話すから、ラルフは手を止めないで」
ふうん、とラルフは納得していない様子ながらも、言われた通り課題に戻った。それを確認して、クラウディアが切り出す。
「ラルフ、私、あなたを好きだわ」
「ねぇそれ、片手間に聞けないんですけど」
机に軽く叩きつけるようにペンを置いて、ラルフが身体ごとクラウディに向き直る。その顔に浮かぶのは、いつものとは違う、苦いものを飲み込んだような笑みであった。
「オレがクラウディアをどんな風にどれだけ好きか、もう分かってるでしょ? ごめんね。どんな意味にせよ、クラウディアのその言葉は軽くは聞けないよ」
その表情と口調から、相手を傷つけてしまったと気付き、クラウディアは言おうとしていた言葉を飲み込んで俯いた。
やはり恋愛事は自分には無理なのだ、と、心が後ろを向いた刹那、アンジェリカの言葉が脳裏を過った。
『あんたは誰?』
その言葉に鼓舞される。恋愛事は不慣れだ。失敗するかもしれない。「それでも」と生唾を飲み、意を決して口を開いた。
「そうではないの。聞き流して欲しいのではなくて、恥ずかしいからこっちを見ないで欲しかったの。私、今からきっと、変な顔をするから」
そう言って隠すように両手を頬に当てるクラウディアは、既に頬が上気し、目が潤み、口元が歪み…… つまり子供が泣き出す直前のような様相になっていた。
予期していたのとは違う突然の事態に、ラルフが固まる。
「私、ラルフがレオンにしたことを知っている。やりすぎだって思うし、そんなことできるあなたが怖いわ。それに、私を守ろうとし過ぎだとも思う。私、そんなに弱くないし、自由に自分で動きたい」
ラルフが口を開きかける前に、言葉を続ける。
「でも、大切な物のように扱ってくれること、嬉しい。ラルフが帰ってきてから、ずっと、心強かった。ずっと、心の支えにしていたの。私、ラルフが好きなの」
言い切って堪えきれなくなり、俯いたまま両目をぎゅっと瞑り、手で覆って顔を隠す。耳まで熱い。心臓が煩い。
自分を好きと言ってくれている相手にさえ、思いを伝えるのはこんなにも勇気の要ることなのかと実感した。応えてくれないどころか理解すらしない相手にそれをしてきたラルフやクリス、ルイス、のみならず恋愛してきた世の中の全ての人に尊敬の念を持った。
瞑っているはずの目が緊張でぐるぐると回る。早く何か言って欲しいのに目の前にいるはずのラルフからは何の反応も返ってこない。一分にも満たない時間であったけれど、クラウディアにとっては待つことのできない長い長い時間で。目を覆う指を恐る恐る外し、そろりと伺い見る。
「ごめん。やっぱり片手間に聞くべきだった。……何て顔するんですか。ちょっと、破壊力凄すぎて。色々無理。心臓痛い」
口元を手で隠し、顔を背けて目を逸らすラルフは、しかし隠しようが無いほど動揺し、クラウディアに劣らないほど真っ赤になっていた。
「ラルフ……?」
「あの。ちょっとだけ、抱き締めて良いですか。ほんとにすごい、ちょっとだけ」
言うが早いか、返事をする前に腕を引かれ、気付いた時には抱きすくめられていた。背の高いラルフとはいえ椅子に座る相手との抱擁は体勢的にキツい。そのことに気を取られて居心地悪くもぞもぞしていると、ぎゅうっと一度強く抱き締められ、ぱっと放された。
「ごめんね。空気に堪えられなくて」
そう言ってクラウディアを元の椅子に戻らせたラルフの笑顔は、いつもの人好きするものとも、先程の苦々しいものとも違う、蕾が綻ぶようなもので。やっと本心に触れさせてもらえたようにクラウディアには感じられた。と同時に、今体温を感じたはずの肩や背中が、突き放されて寒くなる。
「空気に堪えられないって、なによ」
肌に感じる心細さを隠し、くすくす笑って言う。
「いやぁ、なんでしょうね。なんか、好き過ぎて。嬉しすぎて。一旦突き詰めてから空気変えないと色々保てませんでした。もう、しません。……できません」
「しても良いのに」
「駄目です。止めてください。近寄らないで。歯止めきかないです」
「この前はキスまでしたのに」
「もう無理。全然意味が違います。適切な距離を求めます」
「案外真面目なのね」
「いつだって大真面目ですよぉ」
耳まで真っ赤になってあわあわしたまま、いつまでも目を合わせてくれない。いつもは飄々として底を見せないラルフの意外なほどの狼狽えぶりに、可笑しくなって吹き出す。
決まり悪そうに、少し膨れてラルフが尋ねる。
「……レオンのこと、誰に聞いたんですか?」
「アリシアよ」
「ちっ。あいつ、本気で碌なことしないな。……引きましたよねぇ」
「多少ね。それより、城の地下牢でビューラー辺境伯とお隣になったの。知らなければ別の気持ちになったのでしょうけれど、知ってしまっていたから、気まずいやら申し訳無いやらで……」
「あぁ…… それはご迷惑をおかけしました」
くすくす笑いが二人分になる。
「多少って…… 普通もっと怖がるし、嫌いになるでしょ」
「私、魔王だもの」
「昔の話でしょう?」
「今だってそうよ。でも、ラルフは魔王の頃から私を認めてくれていたのよね」
「初恋の残滓じゃないですよ」
「なんのこと?」
「憶えていないのか。あなたは本当にお酒を飲まないでください。……過保護でなく!」
抗議しようと口を開きかけたクラウディアを一蹴し苦笑するラルフの眼差しには、浮かされたような熱っぽさは無い。ただ春の日差しのように穏やかで暖かい空気が、笑い合う二人を包んでいた。
明日、エピローグを1話公開して終演となります。