背負わせるには重いもの
「信じられない。あんたって本当に三十路の記憶あるの?」
「せめてそこは前世の記憶と言って……」
ラルフと話して帰宅した後、クラウディアはそのまま熱を出して寝込んでいた。自室のベッドの上で熱に喘ぎながら、薬を持ってきたアンジェリカに相談したのだが、結局イヤミを言われる羽目になった。
「好きな人を意識した途端に知恵熱とか。ダサっ」
「好きな人ではないわ。私はたぶん、カインを好きなんだと思う……」
「カイン? へえ、そう。で、カインを好きな私って誰? クラウディアだなんて言わないでよね」
言葉の意味が分からず、クラウディアは混乱して黙り込んだ。
「今のあんたは、誰?」
「クラウディア・ギョー……」
「違うわ。あんたは、十六歳のクラウディアに取り憑いてる、日本でOLしてた三十路のモテない女。あんたと話すようになって分かったことがいくつかあるわ。前々からあんたには違和感があったのよ。いい? あんたの行動には一貫性が無い。特に恋愛に関してと、私に対しては酷いものよ。自信満々で近付いたと思ったら、突然放り出す。なんなのよ。あんたは私をどうしたいの?」
言われてみればその通りだ。仲良くなろうとしたり、怖がったり、助けようとしたり、放置したり、今は兄ルイスに押し付けておいて都合の良い時には利用しようとする。ぐうの音も出ず黙り続ける。
「私は七歳のあんたを人攫いに売り、遭難させて、最近では毒を仕込んで殺そうとしたのよ。そんな相手に腹も立てずに許せるなんておかしいじゃない。本当は、クラウディアは許したくないんじゃない? 私を嫌いなんじゃないの? 恨んでいるんじゃないの? 見下しているんじゃないの?」
「それは、アンジェリカの動機とか事情とか、これまでの経緯を聞いたから。仕方ないって思えて……」
「それは誰の考えかって言ってんの。今あんた、綺麗事で繕って感情を蔑ろにしたでしょう? 年齢相応のクラウディアの感情を、三十歳の分別で押し込めたんじゃないの? そうやってあんたは前世から引き継いだ常識とか良識を押し付けてクラウディアの心の発露や成長を阻害してんじゃないの?」
「私が……」
「あんたはもっと、怒るべきだったのよ。七歳の時も、今も。そうやって、クラウディアの素直な気持ちを蔑ろにしてるから、自分が誰に怒っていて、誰を好きなのかも分かんないのよ」
そこまで言うと立ち上がり、アンジェリカは部屋を出て行ってしまった。ドアを閉める直前に「振り回される方の身にもなりなさいよ……」と捨て台詞のように吐いた言葉が、クラウディアの心に刺さった。
勢い良く閉められたドアを暫し呆然と見つめていたが、熱に負けて目を瞑る。
(記憶が感情の邪魔をしてる?)
ぞくりと背筋が凍った。言われてみればそのようにも思える。前世を思い出した日から自分は、三十年で築いた思考の習性を、まだアイデンティティの確立していない幼い人格に押し付けていたのだ。時たま顔を出すクラウディアの本質をただ無自覚に甘受するだけで、意識的に耳を傾けることはしなかったのだ。
子供の小さな声をいちいち聞いてやり、精査して、汲み上げていかねばいけなかったのに、してこなかったせいで自分は自分の感情に無自覚なのだ。
そこまで考えが至ったところで、先程飲んだ解熱剤が効いてきた。浅い眠りに身を委ね、前世の夢を見る。
あの日…… 前世で死んだ日は、三十回目の誕生日だった。朝から少し落ち込んでいたが、前年の同じ日より気持ちは楽だった。もう崖っぷちを通り過ぎ諦めの境地に至ったのだと、悟ったようにいっそ清々しかった。前を向き足取り軽く出勤し、「帰りにケーキとデパ地下惣菜を買って、実家からくすねてきたちょっとお高いワインを開けよう」と独りでほくそ笑む。会社の中に誕生日を祝い合うような友人がいない事実に安堵した。誰にも触れられず、殊更に意識せず、自分一人でこの日をやり過ごしたかった。
どの店のケーキにしようかとスマホに視線を落として始業前の一時を過ごしていると、異変が起こった。
明るい歓声と、「おめでとう」の声。しかしそれは、この日その言葉に敏感になっていた自分に向けられたものでない。
上司の机の前に立った同期が、輪の中心にいる。その、ちらりと見えた横顔には、照れくさそうな、見たことのない幸福そうな笑みが花咲いていて。……一気に落とされた。
これまで何度も同僚のそんな顔を見てきた。何が起こっているのかなんて、聞かなくてもわかる。わかる、のに。
「彼女いないって言ってませんでした? 騙されたぁ!」
甲高く甘い声の可愛い後輩が、茶化す。もうこの一言で十分だった。口々に「おめでとう」を浴びせられる同期を見ていられず、静かに立ち上がるとトイレに逃げ込んだ。
(私の方を一度も見なかった……)
そんなことがショックだった。結婚の報告をしていたであろう同期の男とは入社当初から縁があって、組んで仕事をする時には必ず「他の人と組むより、やりやすい」と言い、「また組めて嬉しい」と言ってくれた。決してプライベートな間柄にはならなかったし、自分に興味が無いことも分かっていた。だから真に受けたわけではなかったが、いつからか、「仕事上のパートナーとしては一番相性の良い相手」と思われたいと願うようになっていた。
しかし、本当の思いを押し込めて、無視して、すり替えて、自分を誤魔化すための願いなど所詮メッキであった。一旦綻びてしまえば、後はもう、ぼろぼろと剥がれ落ちる。
私は彼にとって、何でもない人間だった。
その事実を突きつけられ、涙が零れた。朝なのに。もう始業時間なのに。誕生日なのに。化粧が落ちないようトイレットペーパーで目の下を押さえて、流れる涙を吸い込ませる作業に無言で没頭した。
目が覚めた時、クラウディアは泣いていた。酷く惨めで、最悪な気分であった。そして、改めて思う。
(こんな思いを、まだ七歳の成長段階にある心に背負わせたのか……)
考えてみれば、あの時から仕事で成果を上げることに執心し出したのだ。それは、前世の自分のアイデンティティであり、残滓だ。
続けて気付く。カインを好ましく思ったのは、前世の価値観によるものだ。黒い瞳と髪を持ち、幾分か東洋風の顔立ちをしたカインは、日本人であった自分にはストレス無く受け入れられるものであったし、なにより、自分はカインにとって絶対的に一番の仕事上のパートナーであると自負していた。
前世で破れた恋の相手の、身代わりにしていたのだ。
「ごめん、なさい」
前世の記憶など、もっと意識して手放さなければいけなかったのだ。積極的に過去にしていかなければいけなかったのだ。なのに自分は前世の続きをしていたと漸く気付き、涙が零れた。