新しい距離感
「それと、卑屈な女って、『どうせ自分なんか』って心の中で呟くたびにブレーキ踏んでるのよね。で、慣れすぎて、自分では踏んでる感覚が分からなくなってるの。それが、スイッチ切ってるってこと。むしろ不感症のスイッチ入れてるって言うの? もう、あれでしょ? 『恋ってどんな感情だっけ?』って、乙女ゲーしてる時しか思い出せなかったんじゃない?」
確かにそうであった。傷つくのが嫌で、現実の人物に恋心めいたものが湧いても、全力で打ち消して、見ないふりを決め込んでいた気がする。しかし、あまりに一方的に決めつけて攻められるのも腹が立つ。
「お願い。もうそのくらいで許して。心が痛い。……なによ。アンジェリカだって、乙女ゲーしてたくせに」
「こっちは、そういうんじゃないの。おつきあいよ」
腑に落ちないが突っ込む気にもならないのは、アンジェリカの今生での行いを知ったからである。
アンジェリカは、転生のことだけ上手く隠して、今生での行いの全てをルイスに話していた。
その話をもとに、サリー・フォーサイスとアンジェリカの関係について、既に捕らえられていた者達と交渉したのはクリスであった。難航すると思われていたが、皆、案外とすんなり受け入れた…… というより、口裏を合わせたかのように一様に「サリーに使われている幼い少女はいた。自分も弱い部分があって、付け込まれた。しかし、あれは自分が悪い。あの、素性の知れぬ、亜麻色の髪の少女は、ただ大人の食い物にされただけの被害者だ」と言ったのだという。そして、重い口を開いた幾人かは、「あの娘は、自分のさせられている事をよく理解していた。恨まれていて当然と知りながら、陥れた相手である私から目を背けなかった」とも。
アンジェリカは、サリーの依頼で美人局のようなことをしながらも、その後、自分が引っ掛けた相手に誠実な態度で謝罪していた。最初は「許せるものか」と思った者も、時が経つにつれて、謝罪など考えるはずもなく自分を脅し、利用し続けるサリーに恨みの矛先は向かっていった。
「やましい意味でなく、愛されていたようだよ」
とは、あくまでもクリスの感想であったが、聞かされたクラウディアも同意見であった。前世では夜の仕事をしていたというアンジェリカは、話してみると案外聞き上手で、一度話しただけの内容を憶えていたり、話しながらも相手の心の機敏や周囲を細かく観察し、気遣ってくれる。ただ、クラウディアと二人の時にだけ容赦なく自己主張してくるのは、心を許しているからであると分かるので、それはそれで嬉しくもあった。
「何にせよ、あんたはこれからなんだから、心して選びなさいよね」
俯き加減にそう言ったアンジェリカが、少し達観し過ぎているように見えて、それがミザリーの何か諦めたような笑顔を彷彿とさせる。
「アンジェリカは、後悔している? もっと、ちゃんと恋愛したかったんじゃない?」
言われたアンジェリカが虚を突かれたように目をしばたたせる。
「男はもう良い。前世で随分面倒な思いをしたし、ここでも…… とにかく、もう良い。あんたみたいなトロ臭いのには老婆心で口出ししたくなっちゃうけど。あたし自身は、そういうのは、もうお終い」
何の感情も無く言い切る十六歳の身体の中には雨晒しにされたような剥き出しの空虚さがあって、時たまそこに触れると、クラウディアは心が締め付けられた。
「楽しそうな話をしているな」
いつからそこにいたのか、生け垣の陰からルイスが現れた。
「盗み聞きですか?」
「妻が女同士でどんな悪いことを話すのか、気になった」
テーブルまで歩いてくると、座ったままのアンジェリカの隣に、当たり前のように立つ。お互いの言葉に反して自然に寄り添う姿は、以前とは明らかに違った二人の関係を物語っていた。
「本当に盗み聞きしていたのね」
「アンジェリカのことは全部知りたいのだから仕方がない」
そう言ってルイスは、以前はクラウディアにだけ向けられていた、てらいの無い愛情に満ちた表情を妻に向ける。先程の無感情はどこへやら、アンジェリカが面食らったように頬を染めた。
「駄目です。私は全てを相手に知られるのなんて嫌ですし、相手の全てを知りたいとも欲しいとも思いません。あなたはあなた、私は私。必要な時に、必要な分だけ取り合いましょう?」
生意気な物言いを、ルイスはただ笑って受け入れる。
「やっぱり、私の妻は面白い。全てあなたの思うままに。……しかし、全てを知り尽くしても私はあなたに飽きも手放しもしませんよ」
それだけ言うとルイスは、アンジェリカの頭を小さい子供にするようにぐしゃぐしゃと撫で、テーブルを後にする。
「こう言ってはなんだけれど、あなたのお兄様は、頭がおかしいと思うわ」
立ち去ろうとする背中に投げつけられたアンジェリカの捨て台詞に、ルイスが振り向き、つかつかと戻ってくる。
「私がこうなったのは、幼い頃に山で妹が賊に襲われ、行方不明になった一件のせいだ。……つまり、自業自得だな」
またも虚を突かれた顔。
「仕方がないと諦めて、大人しく愛されろ」
そう言って、またもアンジェリカの頭を撫で回して去る兄の姿を、クラウディアは見つめていた。ルイスの視線が一度も自分に向かなかったことに少し驚いていたが、そんな三人の新しい距離感を微笑ましく思う。
「なんだ。『もうお終い』の『そういうこと』って、恋そのものじゃないのね」
「恋そのものよ。あなたのお兄様は頭がおかしいって言ってるじゃない」
ぐしゃぐしゃになった髪の毛を手櫛で整えながら、不機嫌そうに、しかし頬を染めて憎まれ口を叩くアンジェリカは、年相応の可愛らしい女の子に見えた。