悪役令嬢、媚びを知る
※ キス回。描写がしつこいです。苦手な方、注意。
実際には、何かがあったわけではない。ただ、これまでに何があったのかを、漸くクラウディアが理解しただけだ。
ギョー公爵領にある屋敷にクリスと泊まったあの夜、リンドブルムへの提案を王と臣のそれぞれの立場から煮詰めた後、翌日のために早めにそれぞれの寝室へ引き上げることにした。そこに「男女」の入り込む隙などなかったが、去り際にふと、クリスに悪戯心が湧いた。
深夜に二人きりで、ある意味濃密な時間を過ごしたのだ。それで全く意識してもらえないというのも腹が立つ。しかし、まあ、クラウディアである。どうせ伝わるまいと殆ど諦めながらも、「おやすみなさい」と言いつつ既に次の仕事に移ろうとしているクラウディアの手を取った。血管の赤い筋が透けて見える、白く華奢な手首を見つめ、頬ずりした。
「あなたも無理せず寝てください」
請うように視線を上げると、案の定、きょとんとした無垢な瞳がクリスを見下ろしていた。「やはり、な」と予定調和に寧ろ安心して、視線を外し手首を放す。と、クラウディアの手が、ぎこちなくびくりと跳ねた。一瞬戸惑い、これまでに無い反応に小首を傾げる。
「クラウディア?」
いつもの「真珠姫」でなく名を呼んだのは、本当にただ気が向いただけであったが、名を呼ばれた瞬間、クラウディアの顔に浮かんでいた笑みは消え失せた。目と口元は泣き出しそうに歪み、頬を紅潮させると、沸騰するようにみるみるうちに耳まで真っ赤になった。
思いも寄らぬ反応に、クリスもまた狼狽し頬が熱くなる。思いがけず絡んでしまった視線を外し、逃げたのはクリスの方であった。
「……休んで、ください」
掠れる声を無理矢理絞り出して、部屋を出た。
この最中、クラウディアの脳裏にあったのは、ラルフとの蔵書庫での出来事であった。
ラルフと唇を重ねたあの日、クラウディアは前世から通して初めて知ったことが幾つもある。
まず、「性的な行為が突然始まるのは、創作物の中のみの事象ではない」ということ。現実の男女関係でそこに至るには、見つめ合ったり、お互いの好意を確認し合ったりと言う何かしら過程の行為があるものだと、クラウディアは漠然と思っていた。その思い込みが突き破られて混乱するのと同時に、男性の唇の柔らかさにも驚いていた。もっと固いものだと想像していたが、そっと触れ合うだけのそれは酷く頼りない柔らかさで、少し身を引けばすぐに終わらせてしまえるように思えた。しかし、だからこそ、クラウディアは身を引くことができない。
最初こそ、離れるタイミングが分からずラルフの方から離れてくれるのを待ちながら、「私の鼻呼吸、荒くないかな?」などと考えていたクラウディアであったが、少し経つと、ラルフの吐く息を肌の上に感じられるくらいには冷静になった。そして、また一つ気付く。お互いの息遣いを感じる距離の、肉体的以上の精神的な近さ。離れられることも動くこともできない、ラルフの戸惑いが、ひしひしと伝わってきた。
この口付けは、仕掛けたラルフでさえ予期していなかった事故のようなものなのだろう。触れるだけの唇を固まったように合わせ続けるラルフの心にあるのは、自分勝手に始めてしまった行為に対する後悔。一度離れたら、これまでの二人の関係も崩れてしまう。だからこそ、踏み込むことも、終わらせることもできないし、クラウディアの唇が微かに震えでもしたら、きっとラルフは、より深く自分を責めるだろう。
そうはさせたくなかった。
唐突だったけど嫌じゃなかったよ、と伝えたかった。悪いことしたなんて思わないで、何事が起こっても「なんでもないよ」と言いたげに飄々と笑ってるのがあなたには似合うから、私なんかのために表情を曇らせないで、と伝えたかった。
やがて、どちらからともなく唇が離れた時、クラウディアが掛けられる言葉は、思い付く限り一つしか無かった。
「ラルフ、…………もう一回」
言葉の選択を間違えたかな、という気もしたし、とても恥ずかしいことを言ってしまったようで俯いたが、目だけは請うように見上げる。その上目遣いの媚態が如何にも女臭く感じて、余計に恥ずかしくなる。途端に後悔しかけたが、それと同時に次のキスが始まった。
啄み、下唇を舐め、噛み、熱を分け合うように舌を絡ませ、見つめ合い、息を整えて、また始める。さっきまでしていたのとは違う味わうようなそれは、何度離れても、何度でも始まる行為で。続ければ続けるほど、次があるという安心感を担保に、ただ、相手を貪ることに没頭していった。
やがてラルフが腕の力を緩め、唇を離そうとした時、ゆっくり引き抜かれる舌を、クラウディアは名残を惜しむように唇で噛み、吸った。甘い舌をもっと食べたいと思い、ラルフの赤く腫れた唇の端からだらしなく垂れる唾液を、舐め取り、味わいたいと思う。
そこに鏡が無くて良かった。
「クラウディア……」
窺うように名を呼んだ目の前の友人は雄の顔をしていたから、きっと自分も雌の顔をしているのだろうと思うと、誰に対してか、酷く申し訳なかった。
クラウディアはこの時、情欲を含んで自分に向けられる男性の媚びというものを知った。そして、それと同種のものを、自分の手首に頬ずりしたクリスの表情の中に見て、その行為に込められた思いと意味を悟り、名を呼ばれるのと同時に、以前の出来事が脳裏に蘇った。
自分は以前、クリスに組み敷かれ、首筋に口づけされはしなかったか?
それは、決して悪戯心や嫌がらせ、冷やかしなどでなく、恋慕やら性欲やらという、前世では向けられたことの無かった出所によるものだということを、クラウディアは、やっと理解した。
これまでの全てがすっかり繋がったクラウディアは、耳まで真っ赤になり卒倒しそうになっていた。