3 転生先は戦国時代の蝦夷地
あの不思議な夢から6年後の1554年(天文23年)。
俺は女神たちから授けられたチート能力を表に出すことなく、6歳、数え年にして7歳になっていた。この6年間、俺が何をしてきたのかは、個人情報保護の観点から伏せて頂くとして、いくつか俺の転生先に関してわかったことがある。
俺が転生したのは、蝦夷地渡島半島、現代日本でいうところの、北海道南西部に位置する函館や松前の辺りであった。
ここを支配するのは蠣崎氏、後に松前氏と改称して松前藩を立てることになる一族。当主は蠣崎季広。初代信広から数えて蠣崎家の4代当主だ。
先代の義広は、北海道の先住民族・アイヌに対してかなり強硬な人物だったが、当代の季広は一転して融和政策をとっている。お陰で渡島半島各地で交易が活発になり、領内は急激に発展したそうだ。
もっとも、以上の歴史は俺が元いた前世でのお話。異世界「ミズガルズ」などと融合した今となっては、将来この蝦夷地がどうなってしまうのか予測はつかない。
そんな俺の不安をよそに、海の上ではカモメが華麗に空を舞い、港には商船が行き交い、街は商人たちが大勢出入りしている。一見平穏でのどかな日々が送られている。
だが世界融合の影響は皆無ではない。不思議な現象こそ起こらないものの、早速俺の膨大な歴史知識との食い違いが発生していた。
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最初の食い違い、それは他ならない俺の家と家族についてだった。
今、俺が住んでいるのは茂別館という館である。
茂別館とは、北海道は函館の西、荒波押し寄せる津軽海峡を望む高台の上にある道南十二館の1つで、俺たち不破家の居城である。21世紀の日本では北斗市矢不来に相当する場所である。
道南十二館とは渡島半島南部に点在する和人武士団の館のうち、代表的な12ヶ所を指す用語である。もともと蠣崎家は出羽国北部に勢力を持つ安東家に従属しており、道南十二館は15世紀半ばに当時の安東家家臣が建てたものである。ちなみに安東と蠣崎の主従関係は今でも続いており、季広は安東家当主の安東愛季から蝦夷代官を任じられる形で蝦夷地を治めている。
また、蝦夷地では寒すぎて農業ができないことから、蠣崎家に仕える武士は先住民族・アイヌとの交易の取り締まりによって生計を立てており、道南十二館は交易拠点として活用されている。道南十二館自体は一応は歴史の教科書にも掲載されているが、授業ではサラっと流されることも多いから記憶している人は少ないだろう。
ただ今から40年くらい前、西暦にして1512年にアイヌによる大規模な武装蜂起「ショヤコウジ兄弟の戦い」が勃発し、これら十二館は大きな損害を受けた。
季広の祖父にして当時の蠣崎家当主であった蠣崎光広によってこの武装蜂起は鎮圧されたものの、損傷の激しかった茂別館は捨てられ、当時の館の主であった下国師季は松前に移住ししばらくの間放置されていた。
だけどその後、ある事情で美濃から逃げ込んできた父が再建し、不破家は茂別館に住むようになったと語られている。ちなみに、他の館についても史実とは異なり、「ショヤコウジ兄弟の戦い」の後も随時再建されていったという。
ここが俺の膨大な歴史知識と食い違う点の1つ、「道南十二館の再建」だ。
史実では、1550年(天文19年)に季広がアイヌと和睦するまでの間に、徳山館と勝山館を除いた館はすべて廃止となったからだ。おそらくは茂別館も瓦礫の山のままか更地にでもなっていたことだろう。
そして史実と食い違う点が目の前にもう1つ。
「父上、失礼します!」
「入れ」
俺は子どもらしく元気よく挨拶しながら、父の部屋の襖ふすまを静かに開け中に入る。
部屋の主は、今年54歳になる俺の父親、不破武治である。俺の前世の名前、不破武親の名字と同じ「不破」だ。
父は読書が好きな人物で、書斎には壁の棚一面に蔵書がビッシリ詰まっている。普通の人なら、この光景だけで卒倒することだろう。でもおかげで、今俺が置かれている状況や当時の常識を知ることが出来るんだから、結構助かったりしている。
前世では古文が得意科目の1つだった俺も、教科書に載っているような楷書体ではなく筆で書かれた蛇のようにうねった当時の書体に悪戦苦闘してたが、今となってはスラスラと読める。
さて、戦国通であれば、ここで疑問を呈することになるだろう。「不破氏って美濃、今の岐阜県に居るんじゃないの?」とか「斎藤道三に仕えてるんじゃないの?」といった質問が予想される。
俺も最初はそう思ったんだ。だけど斎藤道三に仕えたのは、不破光治であって武治ではない。
しかもこの不破武治という人は、俺の膨大な歴史知識のどこを探しても見当たらない人物。つまりはこの世界における架空の戦国武将と言うことになる。
父曰わく、「某は不破光治の叔父で、斎藤道三らに理不尽にも追放されて蝦夷に逃れてきたのじゃ」とのことだが、俺は信じていない。俺の中ではこの人はミネルヴァとフレイアによるお膳立てで蝦夷地に流れ着くことになったと考えている。
きっと俺が前世の名前と混同しないように配慮してくれたのだろう、多分。
だだ俺の偏見かもしれないが、父のような学者タイプの人間は、しばしば普通の人と感覚が異なっている場合もある。
「おお、お前だったか。今日は何の本を読むんじゃ?」
「歴史書が読みたいです」
「そうかそうか、お前は勉強熱心だな、“珍妙丸”」
「……」
「珍妙丸」。恥ずかしながら、本当に顔から火が出るほど恥ずかしながら俺の幼名だ。父がそんな名前をつけた理由は定かではない。ともあれ、あまりにも奇抜なセンスとしか言いようがない。
確かに、織田信長も、自分の長男・信忠が生まれた時に「奇妙丸」って名前はつけてましたけど!
けど珍妙丸、だめだ、恥ずかしすぎる。現代日本でDQNネームを付けられた子どもの気持ちが今になってよくわかる。本当に将来グレちゃいそうだ……。
「……その名前で呼ぶのは止めてください、父上」
「なに? 立派な名前ではないか、珍妙丸」
「だ・か・ら! その名前は……」
「わかったわかった。この本をやるから、大人しくするんだ」
「うう……」
おのれ、なんか物でもやれば収まると思いやがって。俺は中の人間的には23歳なんだぞ。もう立派な大人なんだぞ。
俺は父の性格は嫌いではない。だが、名前を呼ばれるときだけは無償に怒りが沸き上がってくる。
3歳になったばかりの時に、松前の城下町で、「珍妙丸! 珍妙丸、どこへ言ったんだあ!」なんて大声で呼ばれた時は、街じゅうの人に散々笑われて恥ずかしさのあまり意識を失ったぐらいだ。あの時はこれが新手の羞恥プレイなのかとさえ思えたものだ。
それ以来、母や他の兄弟は俺のことを「丸」って呼んでいるけど、父だけは相変わらず「珍妙丸」で呼んでいる。はあ、死にたい……。誰か助けて……。
とここで、俺の長兄である不破広治が助け舟を出した。
「父上、失礼します」
不破広治。今年で20歳を迎える俺の長兄。父親の不破武治と同じく、俺の前世の歴史には登場しない人物である。
「おお、今度はお前か。どうした?」
「そろそろ、弟の稽古の時間でございます。弟にとっては、実戦形式の稽古は今日が初めて。ここは拙者が稽古をつけますゆえ、丸を外に連れ出してもよろしゅうございますか?」
「うむ、もうそのような時間であったか。ならば連れていってよいぞ」
「はっ」
ナイス兄上! このまま珍妙丸と呼ばれ続けていたらこの場で卒倒するところだった。俺は兄に感謝の意を示しつつ、父から借りた歴史書を自室に置いて稽古へと向かった。