ヒルダ・追憶編④
ヒルダは、最後に一本だけ残していた花を宙に放った。先程放った、色とりどりの花束とは違った趣の花を一つだけ。その花の色は、凛とした青。それは思い出の中に眠る、淡い初恋の人の瞳と同じ色だった。
「ナタク様。あなたも奥様と同じ場所へと旅立たれたのですね…」
神殿長見習いであった少女の頃、ただ一度、会っただけの人。それでも彼の面影は、今なお、ありありと思い出された。
「三人一緒に、北領の呪いが解けたことを喜んでいらっしゃるのかしら?」
亡くなった先の神殿長と、その幼馴染みで、ナタクの妻であった神官エイメ。そして、ナタク。彼らは、北領の呪いを解くために、それぞれが、その生涯をかけた。
あの出会いの日から今日まで、随分と長い時を経て、様々なことが起きた。
ナタクが去ってから、さほど時を開けず、神殿長であった母親が亡くなった。死後、分かったことだが、母親の体は、病みつかれていた。
もしかしたら、そんな彼女を生かしていたのは、会えずとも、繋がっていたエイメと言う存在であったのかも知れない。
ヒルダは新たな神殿長となった。それから、時は目まぐるしく過ぎて、次元の大波がレーヴェンハルトを襲い、ヒルダは最初の夫と息子を失った。二人を失っても、ヒルダには嘆く暇はなく、神殿長としての務めを果たしてきた。
そんな風にひたすらに己を律し、神殿長として邁進してきた。先に、夫と子供を失ったことで、心から信頼を寄せる相手を作ることが怖くなり、ヒルダは長く一人でいた。
ただ、神殿長の務めとして、子供を残す義務から、その時々で子供の父親に相応しい人物を選定し、子供を産んでいた。
そこに愛情はなかった。己の義務として、レーヴェナータの血筋を絶やさないためだ。
ヒルダの心は常に空虚であった。レーヴェンハルトに住む全ての民を愛し、世界を愛する自分に愛する者がいないなんて、おかしなことだと自嘲した。
そんな彼女が再び、心から信頼出来る相手を得た。最初の夫を亡くしてから、ゆうに百年近く過ぎていた。もっとも、二人の出会いはもっと前のことだ。その人は、常にヒルダの傍にいて、見守り、時に、己を盾としながら、彼女を守ってきた守護騎士であった。
そして、おそらくヒルダの最後の子供となるであろう末子の父親であり、現在の騎士団長である。
ヒルダは彼を得たことで、心にゆとりが出来た。母親が死んでから、彼女の遺品を整理することもなく、仕舞いこんでいたものを掘り起こす余裕すら生まれた。
生前、ヒルダは母親から自分への愛情を感じていなければ、悲しみや憎しみといった負の感情も覚えてなかった。
ただただ、神殿長であった母親は遠々しく、どこか他人のような存在だった。
そんな彼女の心のうちが書かれた日記というか、覚書のようなものを遺品から発見したのは、果たして、偶然であったのだろうか。
そこには、北領の呪いを解くために悩んだ母親の苦悩が書き残されていた。
北領の悲劇は、長くレーヴェンハルトの悩みの種の一つであった。まるで呪いのように旧領都を覆う闇は、何をしても消し去ることが出来ず、他の領地と比べても生きるのに厳しい北領の土地を、さらに過酷なものとした。
長らく、その呪いを解く方法は分からなかったが、母親の残した覚書には、レーヴェナータとキーラ、それぞれの血を受け継ぐ者達、二つの力を合わせることで呪いが解けるとあった。
その覚書を発見し、読んだ時、ヒルダには純粋な驚きしかなかった。何故なら、あの母親が神殿長見習いの時であったとは言え、この聖領から出て、北領の地へと実際に赴いたと言うのだ。そして、その時の供人が、神官であったエイメと聖領騎士団の守護騎士ナタクであった。
母親は実際に、自分の目で確かめたことで、これが呪いなどの盲信の類いではなく、次元の裂け目であることを突き止めた。
そのためにキーラの血筋が持つ力が必要であることも突き止めた。しかし、同行していたエイメは、キーラの血筋でこそあったが、その力を受け継がない。聖領にあるエイメの母親である巫女が、聖領を出ることは決してないだろう。ましてや、力を貸すこともないだろう。説得を試みるまでもなく、それは誰しもが理解していた。
彼女は、この世界を、レーヴェンハルトを憎んでいる。滅んでらよいと思っていること、エイメは知っていた。
エイメは、自分が力になれないことを心底、悲しんだ。それ故に、北領に留まる決意をした。
母親にとってエイメは、最も信頼出来る片腕であった。自身のとった行動から、彼女が北領に残る決意をしたことを、亡くなる直前まで悔やんでいた。
『いつか、キーラの血を引く巫女が北領へと降り立ち、レーヴェナータの血を引く我らと力を合わせて、北領の闇を取り去ってくれることを祈るばかりだ』
母親の覚書の最後に、そう記されてあった。
ヒルダは神殿長となって長いが、これまでの間、地球から巫女を転移しようとはしなかった。
余裕がなかったのもあるが、母親の巫女であった女性の存在が、ヒルダから巫女を呼ぶ決心を鈍らせていた。まるで生きる屍のような巫女を、これ以上、増やすことに迷いがあったのだ。
しかし、母親の覚書を読んだことでヒルダは巫女を転移させることを決意した。
いつも通り、キーラの末裔達の住まう小さな村から巫女となるうる女性を探すつもりであった。
だが、気になる魂の光がその村から遥かに遠い土地で瞬いているのに気付いた。その光は小さく、そして、壊れそうなくらい儚く、ヒルダの目にはうつった。
それもそのはず、その魂の持ち主は、小さな女の子だっだ。
傷付き、うちひしがれた魂は助けを求めることすら諦めたように、ただ、小さく踞るのみだった。
ヒルダの呼び掛けも聞こえないほど、少女は心を閉ざしていた。彼女を見つけて以来、ヒルダは、少女から目が離せなくなった。
元は一つであった、もう一つの祖国。そこに住まう少女の姿を、毎日のように探し求めた。
本当は、すぐにでもこちらへと連れて来たかったが、レーヴェンハルトの理において、子供のうちにこちらへと転移させることは禁忌とされていた。
何故なら、時間の流れの違いから転移した者は全員、地球の年齢よりも随分と若返ってしまうせいだ。
レーヴェンハルトと地球では時の流れが違う。瞬く間に少女は大人へとなり、あと少しで幸せを掴むはずだった。その直前、婚約者から酷い裏切りを受けた。それからの彼女は仕事に打ち込み、折からの不況で人が削られ、休みもなく、働かされていた。
体どころか、心まで蝕まれる生活に彼女は自身の知らぬうちに悲鳴を上げていた。
ヒルダは今こそ、彼女を転移させることを決意した。時の流れの違いから、随分と若返った彼女は、戸惑いながらも、夏希と名乗り、この世界で生きることを受け入れてくれた。
夏希―、ナツキは、ヒルダからすれば、ちょっと変わった女性であった。最初の頃は、この世界に戸惑いながらも、すんなりと馴染んでくれたようだ。
彼女の地球における人生の大半を見てきたヒルダとしては、彼女がこの世界で新しく生き直してくれたらと願うばかりであった。
そんな彼女に『婚活』目的の旅を勧めたのは、他でもないヒルダである。
巫女は、不可侵が不文律とは言え、政争に利用されるのはいつの時代でも起こった。
そこで一時的に、聖領から遠ざけるための名目が『婚活』であった。
しかし、彼女は婚活なんてそっちのけで、行く先々で思いもよらない事態を引き起こしてきた。それも全て、より良い方向にだ。
ヒルダは思った。ナツキならば、北領の呪いを解いてくれるのではないかと―。
北領で、母親によって幽閉されている領主の娘の噂を聞き付ければ、彼女が黙っている訳はないと思った。そこで巧みに情報を操作して、ナツキの耳にその噂が入るように計った。
ヒルダの思惑通り、ナツキは北領へと旅立って行った。そして、数々の過酷な現実と向き合い、心が折れそうになりながらも、ナツキは見事、成し遂げた。
数百年にも及ぶ、北領の闇を取り払ったのだ。だが、そのために大きな犠牲を支払うこととなった。
優しいあなたのことだもの。きっと、たくさん泣いたでしょうね。
そうなると分かっていても、わたくしはあなたを行かせた。レーヴェンハルトの神殿長として、世界の安寧をはかるために。
「…ナツキ。あなたは、わたくしを許してくれるかしら?」
ナツキら一行は、程なく聖領へと戻ってくるだろう。その時、ヒルダは全てを話すつもりであった。
うっすらと夕闇が辺りに迫る。ヒルダは、長いこと、風の吹き抜ける草原に立ち続けた。今は亡き、懐かしい人々を思いながら。
そして、ナツキとの新しい関係を築くために、自分に一体、何が出来るのかと悩みながら。
ヒルダの手で放られた花々は、風に吹かれながら、どこまでも飛んでいく。そんな光景を、ヒルダは一人、風に煽られながら、いつまでも眺めた。
追憶編、これにて終了です。本編はこのまま西領編に突入するか、別の話にするか考え中につき、しばし、お待ち下さい。