ヒルダ・追憶編②
暖かな日差しがこぼれ落ちる、あずまやのなかでヒルダは非常に緊張していた。
何故なら、神殿長見習いである自分が初対面の男と二人きりで向かい合って座っているからだ。
(どうしましょう。わたくし、軽率だったかしら?)
膝の上で拳を握りしめる。
「やあ。ここは変わらないなあ」
そんな心中穏やかならぬヒルダに気付いているのか、いないのか、男はのほほんと言った。
「あなたがこちらにいた頃から、ここはありましたの?」
神殿に程近いと言うのに、ヒルダはこんな場所があることをついぞ知らなかった。
「ああ、そうでした。あなたのような尊い身分の方が、あえてこちらを通ることはないでしょう。知らなくても当然ですよ」
「?」
不思議そうな目で見返してくる少女に、ナタクと名乗った男は優しそうな顔で微笑む。
ヒルダの緊張が緩んだ。何故なら、男からこれっぽっちも好色な視線を感じなかったせいだ。神殿の騎士は品行方正で、かつ、神殿長見習いであるヒルダを崇拝していると言っても過言ではない。しかし、市井に生きる男の中には彼女ら神官を女として見るものがおり、そんな輩から時として下卑た視線を浴びせられた。男は神殿に籍をおいた騎士であったと言うが、今の男は、どう見ても正騎士には見えなかった。
「神殿には下働きの者が多くいるでしょう。そうした者達は、こちらの道から通ってくるのですよ」
男が指指す方向に街へと続く小道があった。神殿に向かう以外に用途はないものらしい。
なるほど、街から神殿へと続く正門は美しく整備され、各所に騎士を配している。その道を通ってくるのは、神殿に祈りを捧げる者はもちろんのこと、神殿に寄進に訪れる者、神殿に用がある者など、言うなれば、お客様である。
「毎日、通うとなれば大変ですからね。そんな者達の休憩にと神殿長が建てられたのですよ」
「神殿長様が?」
ヒルダは驚きで目を見張る。現在の神殿長はヒルダの実母である。しかし、自分の母親という意識はほとんどない。物心つく頃から、母親ではなく、この世界を統べる神殿長であったからだ。
母親の膝の上で甘えたこともなければ、手を繋いで散歩したこともない。それは亡くなった父親と交わした思い出のなかでしかない。
彼女にとって、神殿長である母親は厳格なイメージしかない。そんな母親が下働きの者のために心を砕く姿は想像も出来なかった。
「…あなたは、神殿長を誤解なさってるようですね。あの方が厳しい面しか見せなくなったのには、私にも責任があります」
「どういうことですか?」
「私が…、いや、俺があの方が最も信頼し、心を寄せていた乳姉妹を奪ってしまったからですよ」
「乳姉妹、ですか?そんな方がいらっしゃったのですか。初耳です」
世に言う特権階級の者達の多くには、出産し、疲弊した母親に代わって赤子を育てる乳母という存在がいる。ヒルダにもいたが、神殿に入る時に離れ離れとなった。乳兄弟という者もいたが、彼らと交流はない。
「神殿長様とその方はいつも一緒でしたの?」
「ええ。彼女は神官となって、神殿長を支える役目を担っていましたからね」
「まあ…」
神官になるには、それなりに心構えと気概が必要だが、たいていは孤児が多かった。
「その方にはご両親がいらっしゃらなかったのでしょうか?」
母親の乳母になった方なら、それなりに高い身分の者だろう。それなのに…と、ヒルダの疑問にナタクは皮肉げに答えをくれた。
「いましたよ。ただそう、いただけですが」
「それはどう言う…」
「彼女は、神殿の巫女から生まれたのです」
「あ!」
神殿の最高権力者は神殿長であるが、その対となる存在として公の場には出ない巫女の存在があった。
「巫女の娘として産まれた者は秘匿され、公の場に出ることはない。その血筋ゆえ、内にも外にも厄介なことしか引き起こさないから。あなたもこの世界の歴史として、習ったはずでは?」
確かにそうだ。神殿長が産んだ男子は父親の元で育てられ、女子ならば、神殿長候補として育てられる。しかし、巫女の産んだ子供は秘密裏に処理され、どこにも記録されず、誰の記憶にも残らないのが常であった。
彼女らは、この世界の均衡を保つために誕生し、そして、その一生を終えるのだ。
世界に最高権力者は二人もいらない。しかし、レーヴェナータと同様にキーラの血筋もまた、世界のために必要な存在であった。故に巫女として崇められる。その反面、余計な権力闘争に発展しないように巫女の子供達は隠されて育つのだ。
レーヴェナータの血筋は尊ばれ、次代の神殿長となることを期待されるが、巫女の産んだ子供達は自身がどういう血筋であるかも知らず、育てられる。
だが、例外もあった。
「あなたの奥様がそうだったのですね?」
「ええ」
地球から召喚された巫女の産んだ娘の中には、稀に神官の資質を持つものが誕生することがあった。父親がこちら側の人間であるためだろう。巫女としての資質はないが、神官の能力が受け継がれる。
「亡くなった妻は…。ここにいた当時は、神官として神殿長の傍らにありました。彼女の母親が巫女としてその座にありましたが、不都合はありませんでした」
「そうだったのですね。奥様は神官…。でも、何故、北領であなたと暮らすことになったのでしょうか?神官が聖領の外に出て暮らすなど、ほとんど前例がないでしょうに」
神官の位を降りることは禁止されてはいないので、前例はあるが、巫女の娘であった者が北領を選択するきっかけが分からない。現在の北領の領主はものがたい人物で、正妻以外に妻はないと言う。それ故、巫女の夫にはなりえないだろう。だから、血縁が北領にいるとは考えにくい。
「あなたは聖領の騎士ですが、もしかして、北領出身なのですか?」
「元がつきますが。はい。北領が俺の故郷です。とは言え、本当の故郷は雪雪崩に襲われて、もはや跡形もありませんが」
「まあ…。わたくしったら、辛いことを思い出させてしまったようですね」
ヒルダは余計な詮索をしてしまったことを悔やんだ。
「気になさらないで下さい。随分と前の話です。俺は騎士として領都にいたから、運良く助かったのです。継ぐべき土地も家名もない、今は、吹き溜まりの頭でしかありません」
「吹き溜まり…ですか?」
目をパチクリとさせる。その言葉には、あまりよいイメージはない。
「ええ。寄るべのない、行き場のない者達の集まり…。そう言うと、あなたには嫌悪しかありませんか?」
男の視線が刺さる。自ら、吹き溜まりの頭と言った男の目は、濁りはなく、澄んでいた。
「いいえ。あなたのおっしゃるのは、行き場のない方々の避難場所のような意味合いが強いように感じられます。それは、どなたにも出来ることではありませんでしょう。それが北領ならば、なおのこと」
北領は、他のどの領よりも人が住むには厳しい土地だ。魔獣の跋扈する荒野、作物が育ちにくい大地。その上、かつて領都であった土地は呪われれていると言う。
「どうして、奥様とあなたが北領で生活することになったのでしょう?神殿長が命じたからですか?」
「いいえ。神殿長は、妻に一緒に戻るようにと伝えました。残ることを選択したのは妻だったのですよ」
「それは一体、何故…?」
「己の務めを果たせなかったことへの悔恨もあるでしょうが、それよりも、あの地で出会った者達を、妻は置いてはいけませんでした。連れ帰ることも出来なかったでしょう。
北領の民を理由なく、大勢、連れ帰ることは北領の領主家の面目を潰すことにもなりかねません」
「そもそも、務めとは何でしたの?」
「それは俺の口からは言えません。知りたければ、ご自身でお母上にお尋ねになるといいでしょう」
「母などと…。わたくしと神殿長は、そうした関わり合いを持ちません」
それを寂しいとも思わない。いや、そんな時期はとうに過ぎた。
母子でありながら、情の通わない関係にナタクは悲しそうに眉を寄せた。
「あいつが心配していた通りだったな…」
「え?」
低い呟きは、ヒルダの耳には届かなかった。
「私…、いや、俺が暮らすのは旧領都に程近い洞窟、光の差さない穴蔵の中でね」
そう言って、ナタクが唐突に自分語りを始めた。
「まあ。洞窟、ですか?」
「暗くてジメジメしているとお思いでしょうが、これが案外、快適でね。冬になれば、雪が降り積もる極寒の中で、暖かく過ごせる場所なんですよ」
ナタクの語る吹き溜まりの生活は、なるほど、思ったよりも快適そうではあった。そして、そんな彼の語る、話の中心には、必ず一人の女性がいた。
「妻は…、エイメはまるでこんな日の、陽だまりのような明るくて優しい女でした」
今年、初の更新です。更新はなかなか進まないかもですが、本年も、よろしくお願いします。