偉大な男の最後
私は、目の前の光景に立ち尽くした。何故なら、 それは、私の想像を遥かに越えていたからだ。
「酷い…」
旧領主館と、その周辺が、まるで地獄のような混沌とした闇に呑まれたかのようだった。それを見て、私は鳥肌が立った。以前、目にした光景とは比べ物にもならない。
混沌とした闇は、見渡す限り、数十キロ先まで広がり、吹き溜まりのあった洞窟どころか、バレンさんの畑も低木だらけの森も含めて全てを覆い尽くしていた。
私がいるのは、闇の広がりを見渡せる高台で、アウルムに騎乗したまま、その光景を黙って見つめていた。
旧領都はいわゆる盆地、周囲を山々に囲まれており、北領の厳しい寒さから守られていた。その谷間が、時間と共に刻々と闇へと塗り替えられていく。
「ねえ。この近くに集落はあるの?」
私が知っているのは、吹き溜まりのあった洞窟に住む人々だけだ。しかし、周辺に町や村がないとは言い切れない。
「は、はい。ここから南に一つ山を越えた辺りに村が幾つかあります」
答えてくれたのは、元・北領騎士団員であったカーサである。彼は、幾つかに分けられた騎士団のうち、一つを任されていた優秀な人だ。
「山を越えた…。この調子じゃ、直に山を越えるでしょうね」
闇の広がる速度は目に見える程度に早かった。
「おそらく…、一両日中には越える勢いかと…」
「そう…」
まるで意思をもった生き物であるかのように黒々とした闇が、瞬く間に草や木を呑み込みでいく。
ちょうどその時、偵察に出ていたラベル達が戻ってきた。
「ラベル!吹き溜まりの皆は見つかった?」
「はい。ここから東に向かった辺りで小休止していたのを発見しました」
「セーランはどうしたの?」
ラベルと共に捜索に向かっていたセーランの姿がないのに気付いて問い掛ける。
「セーランと数名が残りました。怪我人もいますし、セーランは薬の扱いにも長けていますから」
「ああ、そうね。セーランなら、しっかりやってくれそうね。私達も一旦、そちらに合流しましょう。ラベル、案内してくれる?」
「はい」
「カーサ。悪いけど、ここに数名で残って監視を続けてもらえる?危ないと思ったら、すぐに移動して知らせてちょうだい」
「承りました」
カーサと元・北領騎士団の面々は、旧領都周辺の地理にも詳しいそうだ。と言うのも、彼らは先代領主アランの直属で度々、こちらへと赴いていたらしい。
騎獣を駆って向かった先に、吹き溜まりの人々が集まっていた。彼らの多くは着の身着のまま、命からがら逃げ出した様子が見てとれた。疲労困憊、疲弊しきったような様子である。もちろん、それにはナタクの死が大いに関係しているのだろう。
「ナツキ様っ!」
私がアウルムから地面に降りると、それに気付いたセアラが泣きながら、こちらへと向かってきた。
彼女もひどい有り様だ。とても領主の娘とは思えない。顔も服も汚れ、もつれるような足取りで私の胸へと飛び込んできた。
「ナツキ様っ!ナツキ様!ナツキ、様っ!」
私にしがみつき、何度も名前を呼んだ。
「…セアラ。ごめんなさい、一人にしてしまって。恐ろしかったでしょう?」
小さな背中を撫でながら、私は詫びる。
「こわ、怖かった!でも、でも!私…、私のせいでナタクさんが!」
そう言って、くしゃくしゃとなった顔を上げた。
「わた、私を庇って、それで…」
「うん。ナタクさんは立派だったと聞いているよ?」
「私が足手まといなばっかりに!私が!」
「ミグ姉さんから聞いたわ。ナタクさんはあなたを守って死んだって。でも、それはあなたのせいなんかじゃない。彼も、あなたが自分を責めるのを決して望んでなどいないわ」
「でも、でも…」
泣きじゃくるセアラの頬を手のひらで拭う。彼女の悲しみは深く、それを癒やせる術を私は持たない。そんな彼女にさらに負担を強いるであろう、自分の罪深さを押し殺すしかなかった。
旧領都の歪みに変化があったのは、朝も早い時間のことだったと聞いた。吹き溜まりのある洞窟の外で周囲を警戒していた数名がそれをまず目撃した。まるで大きな噴水のように、闇が空へと向かって吹き出したと言う。
彼らは直ちにナタクに報告し、吹き溜まりの男達が確認に向かった。その間、もしもに備えて洞窟内の全員を集め、待機させていた。
その後、確認に出た男達が、泡をくって舞い戻ってきた。
「お頭!やべえって!すごい勢いで闇が広がってます!」
「ここもすぐに呑まれちまう!」
闇に呑まれた植物や動物が、からからに干からびてしまうのを目の当たりにしたと震えて言う。
ナタクはすぐさま洞窟を捨てることを決断した。
「東へ、領都を目指すぞ」
「頭、領都に行っても俺達に行き場所なんか…」
「泣き言、言ってるんじゃねえ。領都には今、ナツキ達がいるだろ?なんとかなろうさ」
「あ…、そう言えば」
「だろう?」
主だった幹部達には、ナツキの素性を話してある。不安がる人々を率いる者の心が折れていては、先へは進めない。ナタクはそれを承知していた。
そんな中でセアラが勇気を振り絞り、ナタクへと進言した。
「あの、あの!私も協力いたします!イリューズ商会なら、皆様、全員を収容出来る広さがありますから!」
「そりゃあ…、思ってもみなかった。感謝するぜ」
ナタクが子供のセアラに頭を下げる。
「いえ、当然のことです。お父様もそうしたはずです」
「そうだな。あんたの親父さんなら、援助を惜しまなかっただろう」
セアラは誇らしかった。父のように認められたと感じたからだ。そんな浮わついた心持ちが油断を生んだのだろうか。
女子供を連れた、吹き溜まりの一行はとにかく東へと歩いた。持っていくものは、最小限の食糧と通貨と困ったら金に変えられるもの。とにかく東へと急ぐため、なり振り構っていられなかった。人々はお互いに助け合いながら、進んで行く。
そんなさなか、突如、恐慌状態の魔獣が行く手に現れた。自分達と同じように逃げてきたのだろう。そんな魔獣の姿を目前にし、人々が散開していくなか、セアラは動けなかった。大きな巨体の熊に似た魔獣だった。
「危ねえっ!逃げろ!」
そんな声を耳にしても、セアラは動かない。動けなかったのだ。彼女は領主館で生まれ育ち、生きている魔獣を見たことがなかった。大型魔獣の尖った爪先がセアラの頭上に振り下ろされる。
ザシュッ!肉の切り裂かれる音が響く。
しかし、セアラに痛みはない。彼女を庇うようにナタクが覆い被さっていたからだ。
「きゃあああ!」
女子供の悲鳴が谺する。
「お頭ーっ!」
男達が得物を手に魔獣に斬りかかった。瞬く間に、数人がかりであったが倒すことが出来た。自我を失っていた魔獣は他愛なく、常であれば、誰も傷つくことはなかっただろう。しかしー。
「頭っ!しっかり!」
魔獣を倒すとすぐに、ナタクの元へと駆け寄った彼の右腕であるシュウが、
「おい、傷口を塞ぐぞ!早く、薬を持ってこい!」
と、ありったけの大声で吹き溜まりの民に怒鳴りつける。その声に動けないでいた女達が一斉に動き始める。
「魔獣の爪には毒があるかもしれない。まずは消毒だ!」
シュウの指示のもと、ナタクの手当てが始まった。その間、シュウは他の者への指示も怠らない。ナタクが人事不省の今、片腕である彼が吹き溜まりの人々を導いていく必要があった。
「お前らのうち半数は、周囲の警戒にあたれ!残りは歩みの遅い女達や子供を連れて、先に行け!十分に警戒を怠るなよ!」
「はい!」
男達はすぐさま半数に別れて、各々が今、すべきことが何かを考え、行動を開始する。ナタクのことは気になるが、側にいても自分達に出来ることなどない。だったら、任せておくべきだ。
ナタクは烏合の衆と言ったが、そんなことはない。彼らは自分達の役割をきちんと理解していた。
「兄貴…。俺は先に行くよ。俺がいても十分に戦えないしな」
弟のバレンが後ろからそう声を掛けてきた。
「ああ。皆を守ってやってくれ」
シュウは振り返ることなく、弟へと答える。
「トキさんとマリアだけ、ここに残って治療に当たってくれ。あとの者達はバレンと一緒に行け」
ナタクの手当てに当たっていた女性のうち、年配のトキと治療の心得のあるマリアの二人に残るように命じた。
「でも…」
躊躇う女達にトキが、
「ここはあたしらに任せて、先に行きな!子供達を頼んだよ」
と言って、送り出す。女達は後ろ髪を引かれるように、その場を後にした。彼女らは皆、子供のいる女達だ。領都にある娼館で稼ぐしか生計の道のない女達と違って、織物や刺繍といった腕に覚えのある女達は残って自分の子供以外の子供達の面倒をまとめて一緒に見ていた。
「…お頭を頼む」
彼ら兄弟にとって、ナタクは父親代わりに近い。
「余計なことは考えるな。それからヨウタも連れて行けよ」
「兄貴!俺はここに…」
「黙れ!お前がすべきとは頭に代わって、皆を守ることだ」
「けど…」
「行け!俺からの命令だ。頭の孫だからって優遇されると思うなよ」
ヨウタは拳を握りしめ、顎で頷いた。
去っていく者達を送り出すこともそこそこに、三人はナタクの手当てに一心不乱に励んだ。
シュウがナタクの血を止めようとあてた布を代えようとしたところ、血が全く止まらないことに愕然とした。おそらく毒爪で血止めの薬が効かない作用があったものらしい。
ギリリと歯を食いしばる。そして、数日前に領都に向かったナツキが、ここにいてくれたならと願っても仕方がないことだと分かってはいても、そう思わずにはいられなかった。
彼女が少しばかり融通してくれた薬は、とても効能が高かったからだ。
先だって、魔獣に遭遇した仲間の治療に全部使ってしまったことが、今さらながら悔やまれる。もちろん、それで命をとりとめた仲間をどうこう言うつもりはない。誰しもがこんなことになるとは思ってはいなかったのだから。
「…あんたには最後の最後まで、世話ぁ、かけるな」
苦しい息のもと、ナタクが自分の額に浮かんだ汗を丁寧に拭ってくれたトキへと声を掛けた。
意識が戻ったと喜ぶことは出来なかった。誰の目から見ても、ナタクは助からなことが明白だったからだ。
「そんなこと…。いいんですよ。あたしは自分の赤ん坊を失ってしまったけれど、ヨウタに乳を飲ませてあげることが出来たから」
ちょうど吹き溜まりで生まれたばかりのヨウタに、産後に弱ってしまった体で母親は乳をあげることが出来なかった。
彼女に代わって、溢れんばかりの母乳をヨウタに与え、乳母となったのがトキだ。生来、虚弱な質であったヨウタの母親に代わって、吹き溜まりの女達を纏めてきたのもトキであった。
トキは貧しい寒村の生まれで、ある冬、生まれたばかりの赤ん坊と夫を流行り病で失った。死に場所を求めてさ迷っていたところをナタクに拾われたのだ。
「すまねえ…。あんたにもマリアにも世話をかける」
「私は…、それしか出来ないから」
領都の貧しい人々を無償で治療し、領主に彼らの窮状を救ってくれるよう進言した彼女の父は癒者であった。マリアにはその才はなかったが、父親の尊い意思に賛同し、介護を手伝ってきた。
癒者の使う癒しの魔法には制限があり、それを超えると死に至るのは誰もが知るところだが、父親はそれを超えてしまった。
命がけで救った子供が回復したのを見届けると、その傍らで亡くなった。一人娘のマリアに向かって、満足そうな笑顔を残して。
「私は、父とは違います。父親に援助の手を差しのべてくれなかった領主家を恨んで、領主を殺そうとしたところをあなたに救われました。そして、ここで生きる意味を与えてくれた。感謝しています」
「…そうかい。それなら…、良かった」
ナタクの息が徐々にか細くなっていく。
薬を塗っても溢れる血は止まることがなく、ナタクの命を少しずつ奪っていく。
「セアラは…どうした?」
「…そこにいます」
ミグに守られるようにセアラはすぐ側で動けず縮こまっていた。本当なら、子供達と一緒に先に行くように伝えるべきだ。しかし、シュウにはどうしてもそれが言えなかった。
「すまねえが…。こっちに来てもらえるか?」
セアラがビクリと跳ね上がり、這うようにナタクの側へとやって来た。
その顔は涙でびしょ濡れであった。
「ごめ…ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい!」
何度も、何度もそう言って、ナタクへと詫びの言葉を繰り返した。
「ああ…、良かった、なあ。怪我がなくて…。本当に…良かった…」
「ごめ…」
「いいから…。もう、いいんだ。最後にあんたを…、北領の希望となる、あんたを…、守れて本当に…良かった」
まるで最後の言葉のように聞こえた。たまらずシュウが叫ぶ。
「頭!いや、親父。死ぬな!死なないでくれ!」
「シュウ…。後のこたぁ、頼んだ、ぜ?」
それが最後だった。
「親父―!」
シュウの絶叫と女達のすすり泣き。そして、周囲を守る男達の号泣する声が、呪われた旧領都で、己の才覚一つで大勢の民を守ってきた男への、まるで鎮魂歌のように谺していた。
読んでくれて、本当にありがとうございます。拙い文章ですが、頑張って続きを書きますね。
これからもよろしくお願いします。