最果ての町で
そこは命ある者が誤って足を踏み入れれば、たちどころに凍え死んでしまう世界が広がっていた。
地表を分厚い氷が覆い、木も草も生えていていない氷河の世界を一頭の熊が歩いていた。
遠くから眺めれば、それはどこにでもいそうな熊の姿だ。
だが、その熊は生物で言う熊とは大きく欠け離れていた。
聖獣―、人でも動物でもない。この世の生んだ、奇跡のような存在だ。
パキ、ミシリ。パキパキ。聖獣である熊が歩けば、氷河の上に氷の足跡で出来た道が生まれた。
一時代に聖獣は一頭限り。番となる相手もいなければ、仲間である同族もいない。
彼は自由だった。そして、彼は孤独であった。
それを寂しいとか、孤独だとか言う感情は持ち合わせていない。
しかし近年、彼は常に苛ついていた。
理由は、何処からともなく声が聞こえてくるからだ。
小さな、それでいて聞こえぬ振りをするには、どうにも無視出来ない声が。
寒い、寒いよ…。
ここは暗い。どうして、誰もいないの?
痛い、痛いよ。何故、こんなことに…。
私は悪くないのに。どうして?
繰り返し、繰り返し、声は聞こえてくる。聖獣は、声を振り払うように、ぶるると首を振った。
それから、鼻先を宙に上げて、辺りを見回す。もちろん、周囲には誰もいない。自分一人だ。
《…まったく、困ったものだ》
聖獣は、人の住む領域へと方向転換した。何故ならば、声はそちらから聞こえてくるからだ。
ミシリ、パシリ。パキパキ。
聖獣は歩く。声のする方へと。
荒れ地を抜けて、しばらく空中を騎獣で駆けていると小さな町が見えた。昨夜の討伐で疲れきった面々を休ませてあげたかったナツキは、町があることを喜んだ。
「あ!見てみて!町だよ!」
「ほんとだ。町ですね…」
ラベルのテンションが低い。いつもは賑か過ぎるくらいなのに。艶々とした獣人の毛並みが薄汚れて、べしゃっとしていた。
「宿があればいいんだけど…。なくても、交渉してお湯を使わせてもらおうね」
「そうですね。あと、出来れば仮眠も」
「あー、私もそれ賛成。もう、眠くて眠くて」
ラベルの言葉にエリーが賛同する。こちらも、折角の美女が台無しだ。目のまわりには大きな隈が出来ていた。
出発前に数時間、全員に仮眠をとってもらいたかったのだが、荒れ地にいるよりは早めに抜けた方が良いとの意見が出て、そのまま出発した。
だから、昨夜から徹夜である。
「エリーも眠いよね?あれ?でも、蝙蝠姫は夜行性なんじゃ?」
「だから、蝙蝠姫じゃないってば!それに私は人よ!蝙蝠と一緒にしないで!」
うーん。寝不足でも返しはキレッキレだね。
町の手前で騎獣から降り、中へと入る。城壁があって門番がいるような、大きな町ではない。人や物の出入りは自由なようだ。
アウルムはまだ小さいので連れて入ったが、他の子達には自由にしていいと言って離してある。
どの子も訓練されていて、頭がいいので安心だ。
それでも、アウルムの面倒をみるのは大変だろうと思って私は連れて行ったが、すぐに後悔した。
「なあ、あんた。その騎獣を売ってくれないか?」
最初に声を掛けてきたのは、商人のようだった。さして上等ではないが、その辺を歩いている人よりは身なりが良かった。
「売りものじゃないので、すいません」
「そうだよな。騎獣を売ったりするはずないものな」
そう言って、すぐに諦めてくれた。
それからも何度も道で声を掛けられた。丁寧に交渉してくる者はいいほうで、半ば、強引な者やしつこく食い下がってくる者には辟易した。
最初の人から宿の場所を聞いていたので、そこに到着するまで大変だった。
「はあ。もう、なんなの!ここって、そんなに騎獣不足なの?」
「やあ、大変だったね。この町は荒れ地を渡る者が最後に集まってくる場所で騎獣は何頭いたって足りないんだ」
宿のおじさんがそう言って、温かい飲み物を渡してくれた。
「うーん。生き返るわー」
決して上等な茶葉ではないが、とにかく温かいし、砂糖もたっぷり入っているので体中にしみわたる。
騎獣は野外か獣舎が基本だけれど、外へ出しておくなど、とんでもない。一晩で盗難に会いそうだ。
おじさんに余分にお金を払って、部屋へと入れてもらえるよう取り計らった。
「まだ、子供みたいだからいいよ。騎獣の盗難なんか、当たり前すぎて誰も本気で捜したりはしてくれないよ」
町にも警備兵がいるにはいるが、荒れ地から時折飛来してくる魔獣の対応で盗難なんかに人手は避けないそうだ。
「盗られたくなかったら、ちゃんとしまっておけ!」だ、そうだ。うーん、世知辛い。
「そもそも、こんな少人数で北領へ来るなんて珍しい。まさか、観光かい?」
北領へ入ってくるのは、それこそ大勢の傭兵を雇って来る、それこそ命懸けの商売で利益を得ようと目論む商人連中だ。
「荒れ地を渡るのは大変だが、北領の金銀や宝石は大層価値があるからね。大枚をはたいても、大勢の商人がやって来るのさ」
「へえ。そうなんだ。残念ながら、商売なんかじゃなくて、私は姪っ子に会いに来ただけなんだけどね」
「姪子さんに会いに?わざわざ荒れ地を通って?」
そんか酔狂なと言わんばかりの顔をされた。
私のような、家族や知り合いに会いになんて理由で荒れ地を渡って来る猛者?は珍しいのだそうだ。
「まあ、人にはそれぞれ事情ってもんがある。とにかく、ゆっくり休んでおいでよ」
食事がしたいなら、給仕に頼んだらいいと言い終えて、奥へと下がって行った。
宿の一階は食事と酒を提供する場で宿泊客以外も利用できるようだ。様々な職種の人間が集まっているようだ。なかには明らかに人相の悪い輩もいる。ここには性格はともかく美女と呼べるアリーサとエリーがいる。
厄介なことに巻き込まれなければいいがと思っていたら、案の定、馬鹿な男達がやって来た。
「よお。ここいらじゃ見かけない、かわい子ちゃんじゃねえか。良かったら、良い仕事を世話するぜ?」
かわい子ちゃんときた。しかも、仕事の斡旋つき。どう見ても、まともな仕事じゃない。
二人は当然、無視する。
「おい。無視すんなよ」
エリーの肩に手を掛けようとした男の腕をミグが遠慮なく掴み上げる。
「ちょっとお!ここにも美女がいるじゃないの!そっちこそ、無視しないでよね」
「はあ!お前が美女な訳ねえだろ」
「あらあ。そんなこと、言うんだ?」
ギリギリギリ、そんな音が聞こえてきそうなくらいミグが男の腕を捻り上げる。
「ぎゃあ!止めろ!」
「てめえ!どうゆうつもりだ!離しやがれ!」
男の仲間がミグに向かって行くのを、今度はエリーが足を引っかけて蹴躓かせた。
「ごめんなさい。足が長くって」
ちっともごめんて言う顔ではない。侮蔑と嫌悪が滲み出ている。
「ふざけっ…」
床を這っていた男が身を起こそうとするのをヴァンが上から踏みつける。
「俺の連れに手を出すな」
「ぐええっ」
思いっきり、背中を踏まれた男が呻いた。
ホント、容赦ないな。私は、一連のやり取りを黙って傍観するに留める。
「行け」
短く言って、ヴァンが男から足をどけた。
男達はようやく、自分達の手に負えない相手にちょっかいを出したことに気付いた。
「覚えてやがれ!」
捨て台詞を残し、宿から出て行った。
「あんたら、厄介な相手に目を付けられたようだね」
宿の主人が戻ってきて、そう言う。
「あっちから手を出してきたのよ?」
「まあ、そうなんだけど。あいつらはこの町を牛耳るホップさんの小飼なんだ。町の警備隊も、あいつらの言いなりでどんな無法も通っちまう。
この町に留まっている間は、用心するに越したことはないよ」
自分には何もしてあげられないと、断わりをいれてきた。
おそらく、これまでも似たようなことがあったのだろう。そうして、自分の身を守ることは悪いことではない。
私達は通りすがりの客に過ぎず、彼はここで生活しているのだ。
けれど、それをいつまでも放置していい筈がない。
「大丈夫。自分達の身は自分達で守るから」
まあ、私は守ってもらう立場だから偉そうなことは言えないが。
「すまんね。ここではそうしないと生きていけないんだ」
私達は二人ずつ、それぞれ部屋が分かれていたので、一旦は部屋に行き、荷物を置いてから再び集まった。
一番広い部屋、つまり、私とアリーサの部屋へだ。広いとは言え、さすがに全員が集まると狭苦しい。ぎゅうぎゅうとなって寄り集まる。
「このままじゃいけないと思うの」
私は皆を見渡しながら、そう切り出した。
「…そういい出すと思ってました」
ハアと、ヴァンが嘆息する。
「ため息つかないで!大切なことよ。ここは北領から荒れ地を抜けるために通る、最後の町でしょ?
そんな場所で無法が行われていたら、どうなるの?」
「まあ、とんでもないでしょうな」
渋々言う。
「そうよ。とんでもないの。もしかしたら、ありったけの財産を持って北領から出ようとしている人達から金品を巻き上げているかも知れないわ」
「ありそうなこった。北領はどこでも、強い者が法みたいなとこがあるからね。
幸い、あたしがこの町を通った時は、お偉いさんのお墨付きがあったから、そんなことはなかったけど、金品やさっきみたいに女子供を要求されることだって、あるかも知れないね」
そうよ、そうなのだ。弱い者から搾取しようと言う輩は、際限がない。
「きちんと調べて正しい方向に導いてあげないと」
「けど、聖領ならばともかく、他領では難しいかと思いますよ?」
ラベルが発言する。彼は東領の領主一族なので、その辺りは詳しいのだろう。
「具体的にどう難しいの?」
「まず、町には町長がいます。ホップと言うのはそれに該当しません。だから、この町独自の勢力なんでしょう。
次に町を守る警備隊がいます。この警備隊の平隊員はともかく、隊長は北領の領主が任命します。最も、名前を貸すだけで実際に任命しているのは、別の人間でしょうけど。
ホップは彼らと繋がっているようですから、この町の町長にだって、おいそれと処罰は出来ません。
警備隊隊長は、おそらく中央の要人で北領の領主直々の臣下ですからね」
「ふうん、そうなの」
聖領は独自の体制が敷かれていて、各領地とは異なっている。神殿もそうだが、神殿騎士団を擁しているからだ。
彼らこそが軍司の要であり、時として、法である。
「それじゃあ、警備隊隊長に会ってみようか」
「はあ?自分の話を聞いていましたか?ホップの無法を許している親玉に会ってどうするんですか!逆に難癖つけられるのがおちですよ!」
ラベルに全力で拒否られた。
えー。親玉に会って、ビシッと言ってやったらいいんじゃないの?
「ここが聖領ならば、それでもいいだろう。けれど、ここは北領だ。そろそろ自覚してくれないか?」
うう。ヴァンまで、そう言うの?
神殿の威光でちゃちゃっと解決したら、いいのに。お忍びの旅だった東領や南領とは違い、私が挑むのは北領領主家だ。
北領の現当主の妹が、本当に塔に閉じ込められているのかどうか確認するのが目的だ。
場合によっては救出する予定である。逃げも隠れもしない、堂々と先代領主夫人と渡り合うつもりだ。
「北領をこれまで訪れた領と一緒に考えない方がいい。この地は『禁忌を犯した地』なのだから」
「それってどう言う意味?」
私は、詳しい事情を知ってそうな、ミグの方を見た。何と言っても、彼女は北領出身の冒険者である。幼い頃に北領を出たアリーサよりも北領について詳しいはずだ。
すると、彼女は辛そうな、それでいて泣き出しそうな表情を浮かべていた。
「あたしは…」
唇を戦慄かせ、ミグが言い澱む。
『禁忌を犯した地』を巡る、悲しい物語を私は当事者の一人であったミグの口から直接聞くことになる。
でも、それはもっとずっと後のことだ。
この時、私が聞いたのは事の発端、かつて起きた北領領主の跡目争いとその悲劇の結末だった。