次元の大波
久々の神殿だと感激も束の間、わらわらと現れた神官達に「先ずは湯浴みなさって下さい!」と浴室に放り込まれた。
え?そんなに臭うかな?
「何日かタオルで体を拭いただけでしたし、それに騎獣に乗ってましたから」
アリーサがそっと視線を外す。
南領は暑くても、翼人に入浴の習慣はない。水浴びが主だ。途中で立ち寄った村でもお風呂はなかったし。
基本、行水か湯を湧かして盥に入れて体を拭う。庶民の暮らしでは大概そうする。一部では魔法で体や衣服の汚れを除去する者もいるそうだ。
大浴場を備えた神殿や領主館などは、そもそも別格である。
「聖領でもスーパー銭湯を作っちゃおうか?」
「スーパー?何ですか、それは」
私はアリーサに説明する。
彼女は一緒に湯船に入っているわけではない。介添えとして側に侍っているだけだ。
毎回、一人でいいって言っているのだけどね。湯中りした前科があるため、強く言えないのだ。
スーパー銭湯なるものを簡単に説明すると、
「それはいいかも知れませんね。聖領の冬は寒さが厳しいですし。湯治場が無いわけではありませんが、やはりある程度懐に余裕のある者でないと難しいですし」
諸手をあげて賛成してくれた。
聖領にも温泉はある。人の足で歩いて行くには遠いので騎獣を借りる必要があるし、日帰りならともかく宿泊にはお金が掛かる。
平民にそんな余裕はない。
日本人の多くが国内旅行や海外旅行へ気軽に行っているのに比べて、こちらの人々の生活は全体的に慎ましい。
「お湯を湧かして、ろ過する装置や温度調節の魔法具を設置しておけば、それほど手間ではないでしょう?
聖領は豊富な水源を保っている地だから、水不足で困ることもないだろし」
「そうですね。魔法具を設置するのは高価ではありますが、簡単ですし、湖の水も豊富ですから」
聖領の飲み水など全てを賄う湖は神殿の裏山にある。巨大なダム湖だ。余程の大災害が起きない限り、枯渇することも決壊することも無いだろう。
「本格的な冬が来る前に着工しようよ。病院の敷地候補の空き地が幾らかあったじゃない?そこに建てたらいいよ」
体を清潔に保つことはある種の病気予防でもあるし、お風呂にゆったりと浸かることでリラックス効果も得られるし、その日の疲れもとれる。
「そのお話は次の議案にのせましょう。あなたは聖領の議長なのですから」
あー、そんな肩書きあったっけ。すっかり忘れてたよ。
「領主会議で諸々が滞ってますし、のんびりとはしていられませんよ?」
まだ帰ってから半日も経っていないと言うのに、もう仕事の話か。やれやれ。
さっぱりした私は巫女の装束を身に纏う。これだけはいまだに慣れないんだよね。神官服の方がはるかにましだよ。女神様ルックは似合う人が着ればいいのに。
「ヒルダさん、ただいま帰りました」
執務室に足を踏み入れた途端、屍のごとく突っ伏したヒルダさんを目撃した。
「ええ!ちょっと大丈夫ですか?」
慌てて駆け寄るとすると側仕えのピアレット通称ピアさんが、
「放っておいたら勝手に復活するので問題ありません」
と、しれっとした顔で言い放った。
「どこか具合でも悪いんじゃ?お医者様には診せたの?」
「病気ではありません。言うなれば、領主会議の後遺症とでも言いますか…」
「そうなのよ~。あの狸どもが~」
地獄の底から聞こえてくるような、恨みがましい声が響く。
うわっ、生きてたの?半分、死んでるのかと思ったよ。
「ひどいわ。ナツキ様までそんなことをおっしゃるの!」
目の下の隈がすごいよ?ちゃんと寝てるの?
「領主会議は戦いなのよう。眠ったら負けなの」
「そんなはずがないでしょう?虚言癖も大概になさいませ」
ピアさんがひどい。アリーサといい勝負だ。
「全くもう!領主会議ではあれほど威厳あるお姿でしたのに、終わった途端、これですから」
私が呑気に旅に出てる間、そんなに気を張って仕事をしていたのか。なんだか申し訳無い。
私達は揃って、執務室からヒルダさんの私室へと異動した。息抜きも兼ねて、南領での報告を行う予定だ。
聞かれたくない内容も多々あるので、人払いの意味合いもある。
アリーサとピアさんはお茶の支度を終えると、共に部屋から出て行った。流石に有能だね。空気を読む、読む。
ヒルダさんは監視?の目がないのを、これ幸いと長椅子にぐったりと倒れ込んだ。
ピアさんじゃないけど、お行儀が悪いですよ?私みたいな庶民はともかく、女神もかくやと言うくらいの美女であるヒルダさんにだらけた姿は似合わない。
まあ、お小言を言うつもりはないけれど。
「お疲れ様でした」
私は反対の椅子に腰掛け、ヒルダさんを労らう。
ヒルダさんは口元だけで笑みを作り、
「少しだけ、大人になったのかしら?」
と、意味深に言った。
心が成長したという意味ではイエスだ。
「私も日々、成長していますから」
胸を張って答える。
それから、ヒルダさんは長椅子の膝掛けに頭を預けたまま、目線で会話の先を促した。
ええと、それじゃあと私は語り始める。
今回の旅も結構、色々あった。南領で出会った人々、起こった事件、そして、その結末をー。
獣人と翼人の争いの件では、ヒルダさんが南領の領主だけでなく、聖領においても長い間、頭を悩ませていたと吐露する。
他領のことなので神殿が下手に介入する訳にもいかず、手をこまねいていた所、百年前の惨劇が起こった。
「あの時は、わたくしも胸が潰れそうだったわ」
あまりにも痛ましくて。
先代の神殿長である母親から、その座を譲り受けたばかりの頃で、自分は経験値もなく未熟だった。
「いつの日か、両者が真に和解するために何が出来るだろうかと考えていたけれど。
そうなの…、そんな謂れのある鐘が存在していたの」
多分、今頃は鐘の存在が南領の到るところに広まって、その鐘の音を聞きに大勢が集まって来ることだろう。
そこで獣人も翼人も人も、一切の区別がなく、調和の音色を聞くだろう。
「わたくしも知らないことが、まだまだ、世の中にはたくさんありそうね」
南領の領主家に対する処罰は今回は見送られた。たくさんの被害や犠牲者も出たのだが、迅速に争いを治めたのも南領家であったからと言う理由だ。
それに非公式たが、近いうちに南領では代替わりが行われる。
「今回、直接関与はしていないけれど、現在の領主と獣人、翼人の当主達は責めを負わなければなりません。これは仕方のないことなのよ」
そうか…。リヒトさんが領主になるのか。ならば、近い内に伴侶となる女性も決定するはずだ。
ほんの一瞬、チクリと胸が痛むのを感じた。
でも、すぐに忘れられるくらいの痛みだから、きっと大丈夫。
「あなたが来てから、レーヴェンハルトの歴史が大きく動き始めたようね」
「私は、たいしたことはしてませんけどね」
軽く肩を竦める。
「ナツキ様、巫女の役割をどのようにお考えになって?」
え?どういう意味でしょうか?
「巫女がこの世界で果たす役割についてです」
だらけた姿から居ずまいを正すと、ヒルダさんはたちまち威厳のある神殿長へと戻る。
「…ええと。レーヴェンハルトの存続させるためにキーラの血筋が必要だから?」
「もちろん、それもあります。それ以上にあなた方は停滞する、この世界に新しい風を送ってくれる、何よりも得がたい存在なのですよ」
レーヴェンハルトは魔法の力によって守られ、閉じられた一つの世界である。ある意味完成された、言い換えれば、これ以上の進歩のない世界なのだと。
「けれど、魔力が失われれば、一瞬で崩れ落ちる。儚く脆い世界でもあります。
そんな世界に新しい風を吹かせて掃き清め、新たな命を芽吹かせてくれる。それが貴女方、巫女の本来の役割だとわたくしは思っています」
私がこの世界に新しい命を芽吹かせる?何だか、途方もなく荷が重いのだけれど。
「あなたが重く受け止める必要はないわ。わたくしが、そう思っているだけですもの」
先代の神官長と先代の巫女との間には、また違った関係性があったでしょうし。
「もう一つ、わたくしはあなたにお伝えしなければならないことがあります。
本来、もっと早くに伝えるべきだったのでしょうけれど、あなたの新しい器はまだ完成されていないように見えたから、伝えるには早過ぎると判断したのです」
え?なんだろう。凄く嫌な予感しかしないのだけれど。
「魔法によって守られた、この世界は決して万全ではありません。わたくしの力を持ってしても防ぐことが出来ない、大災害が数百年に一度起こるのです。
わたくし達は、それを『次元の大波』と呼び表します」
次元の大波ー。
あっと言う間に人や町を呑み込む、大津波を想像させるネーミングに不吉な予感はいや増す。
「先の大災害が起きたのは、二百年ほど前のこと。わたくしが神官として修練に励んでいた頃のことです」
『次元の大波』とは、おびただしい数の魔獣が群れをなして、レーヴェンハルトの大地をまるで大きな波が打ち寄せるが如く、襲撃する様を言うのだそうだ。
蝗の群れが大量発生して作物や緑を食いつくす、自然災害のようなものだろうか。
ただし、決定的に違うのは魔獣が襲うのは人、地上で暮らす生きている人間だ。
それらがどこで生まれるのか、そして、いつやって来るのか誰にも分からない。
「その際、私は魔獣討伐に向かった最初の夫と息子を失いました」
「…え?」
「お気になさらないで。もう…、随分と昔の話です。悲しみもとうに癒えています」
そんなはずがない。大切な人を、家族を失った痛みは年月によって多少薄れはすれど、完全に消えてなくなるなんてない。
私は知っている。そして、ヒルダさんもそれを知っているはずだ。だからこそ、今まで話さなかったのだ。
「…お辛かったですね」
心からお悔やみを伝える。
「あなたはちゃんと泣けたのですか?」
神殿長となる前のヒルダさん、そう期待されていたあなたはー。
「…っ!」
ヒルダさんの体が小刻みに震える。
いつも毅然として凛々しくて、誰よりも気高い人。
でも、彼女もまた、一人の人間だ。愛する人を失なえば、苦しみもするし、悲しみもする。
「あなたは…、わたくしを泣かせるのが上手ですね」
つうと頬を流れる。
これまでの人生で、一筋の涙がこれほど美しいと感じたことは一度もなかった。
最近、一話から加筆修正作業を行っています。何だか自身の黒歴史を見せつけられた気分。設定の甘さなども直していく予定です。