11 *事情*
「ま、今日はこんなところでいいだろ」
「ありがとうございましたぁ~」
マスターの声に、未來と茅子が緊張を解いてへたりこむ。
ライブハウス〈ROCK HEARTBEAT〉のマスターの指導によるギター&ベースの演奏練習を始めて二週間が経った。
学校が終わってから一時間、休日は昼過ぎから三時間、この二週間は練習漬けの毎日だった。
「部活動って感じだよね!」
「せっかく貰った部室を、ほとんど使ってないのは、どうかと思うけどね……」
スポーツドリンクをあおりながら、和気あいあいと話し始める女子高生二人。
あの甘党の茅子でさえ甘い飲み物ではなくナトリウム多めのしょっぱい飲み物を飲んでいるのだから、それだけ練習が厳しいのだろう。
クーラーが利いているにも関わらず留まるところを知らない汗を拭こうと、未來がタオルを取るために立ち上がったところで、すっかり練習部屋と化した控室の防音扉が開いた、
「お疲れさまです~。練習、進んでますか?」
入ってきたのは、未來と茅子のクラスの担任教師にして軽音部顧問、神崎愛だった。
「これ、差し入れです」
「すみませんね、いつもいつも」
「いえいえ、こちらこそうちの生徒の面倒を見てくださって。私は楽器とかできないので助かってます」
慣例通り差し入れの焼き菓子(毎回茅子の家で買ってくるらしい。未來と引き換えに獲得したお得意さんだ)をマスターに渡し、そのまま世間話を始める。
神崎が初めてこのライブハウスに来たのは、練習を開始した翌日のことだった。
その日学校で、ライブハウスで練習を見てもらえることになったと報告すると、その日のうちに菓子折りを持って現れたのだ。
初めて神崎に会ったときにマスターが彼女のことをみくちこの同級生と勘違いしたのは記憶に新しい。
「ところで、」
世間話がどういう展開に転がったのか、神崎が不意に未來たちの方に視線を向けて疑問を発した。
「二人は、ギターは上手くなってるんですか?」
「もっちろんだよ! もうべきべきべきって音がするくらい上達してるよ!」
「まあぼちぼちですな。教えたことはちゃんと覚えてくれるからラクではありますよ」
「先生、私のは、ギターじゃなくてベースです」
三者三様の答えが返ってきて、神崎はやや面食らう。
頭の回転が速い方ではないので同時に喋られると理解が追いつかないのだ。
「ええっと、べきべき音がするくらいラクなベースなんですね!」
「愛ちゃん先生、こんがらがってるこんがらがってる」
「このお嬢ちゃんは本当に学校の先生やれてんのかね」
「し、失礼な! ちゃんとやれてますよう!」
「でも先生、この間、現文の音読で何回も噛んでましたよね」
「あうあう、それは言わないでぇ」
完全にもてあそばれている現文教師神崎。
リアクションが可愛いためつい意地悪を言ってしまう、小学生男子のキモチが少しだけ理解できるような気がする未來と茅子だった。
「それでマスターさん、結局あたしたちって、上達はしてるの?」
仕切り直しというわけではないが、未來が念を押すように質問を繰り返した。
対してマスターは腕を組んで語り始める。
「言ったろ、覚えはいいって。ただ、初心者ってのは何事もそういうもんだ。乾いたスポンジが水をよく吸うように、始めたばっかの頃は教えたことを覚えやすいんだよ」
「ムツカシイことはいいの。練習は順調なの? はいかイエスで答えなさい」
「お前、コーチの言うことはちゃんと聞けよな……」
お勉強がニガテな女子高生には長ったらしい講釈は理解できなかったらしい。これでギターの練習のときはちゃんと話を聞くことができるのだから、モチベーションというのは女子高生の耳に多大な影響を及ぼすようだ。
「みくちゃん、要するに、筋はいいからこの調子で頑張れ、ってことだよ」
「なんだ、だったら最初っからそう言えばいいのに」
「俺は筋はいいけど調子に乗るなって言ったつもりなんだがなあ……」
ややポジティブに脳内変換された評価だったが、マスターもあえて強く否定はしない。
初心者のうちは、叩いて伸ばすよりも褒めて伸ばす方がよいというのが、彼の考えだった。
「はあ、なんにしても、練習は順調なんですね。よかったです」
持参した焼き菓子をつまみながら、神崎が胸に手を当ててホッとしたように微笑む。
「愛ちゃん先生、それあたしたちに持ってきてくれたんじゃないの?」
「はわわっ、ご、ごめんなさいぃっ!」
……こうしてみると、もはや同級生を通り越して下級生のようだった。
「でもこれだけ上達してきたら、そろそろシイバさんもバンドに入ってくれるんじゃないかな」
「椎葉さん?」
練習を終え、地下から出て羽を伸ばしていた未來が、ふと呟いた。
事情を知らない神崎が首を傾げる。
「椎葉さんって、椎葉直さん?」
「うん、ドラムがすごい上手いの」
「そうなんですか」
「あたしたちが上手くなったらバンドに入ってくれるんだぁ」
椎葉自身は一言もそんなことは言っていないのだが、未來の中ではすでに確定事項になっているらしい。
なるほどぉ、と神崎はほわほわ頷く。
「椎葉さん、クラスでは浮いてるみたいだから心配してたけど、ちゃんと友達がいたんですね」
「友達、かなあ……?」
茅子は茅子で、事情を知っているがゆえに首を傾げる。
たしかに、二度三度学校外で遭遇しただけで友達と言うにはいささか無理があるかもしれない。
確実なのは、向こうは確実に友人とは認識していないということだ。
「そもそも『ここまで上達してきたら』っつうのが、どんだけ上手くなったつもりなんだって話だよな」
見送りに来ていたマスターがここでようやくツッコミを入れる。
「練習は順調って言ったじゃん!」
「あくまで二週間の練習結果の話だよ! 直ちゃんをスカウトしたいなら最低でも一カ月は死ぬ気の猛特訓が必要だっつの!」
「え、もう半月も……?」
嘘でしょ……?という顔で膝から崩れ落ちる未來。
どれほど見通しが甘かったのだろうか。
「もうちょっと、もうちょっとって思ってたからここまで頑張ってこれたのに……」
「本当に根性ねえなあ今どきの高校生は!」
未來と一緒にするな、と全国の高校生が心の中で叫んだような気がした。
まあ、いつも通りの演出過剰で、本心から練習を嫌がっているわけではないのだろうが。
このところの濃密な付き合いでその辺りをマスターも理解したのか、苦笑いして頬をかく。
「ただなあ……」
苦笑いしながら、しかしその瞳には、目の前の夢見がち少女に対する同情が、かすかに見て取れた。
小さな声で、呟く。
「どれだけ上手くなっても、直ちゃんはバンドにゃ入らねえと思うけどなあ」
その呟きは、すでに話題を変えて茅子や神崎と雑談を交わしている未來の耳に届くことはなかった。
「未來ちゃ~ん」
未來が学校の廊下をてくてくと歩いていると、背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには何やらプリントを抱えた神崎が。
「どしたの、愛ちゃん先生?」
「あのね、今日、椎葉さん学校お休みしたでしょ?」
「ああ……」
たしか朝のHRの時点で風邪で欠席と言っていたはずだ。が、それがどうかしたのだろうか。
「はっ……まさか、ゲーセンでサボってるのが見つかったとか!?」
「違います! 大体、そうだとしても未來ちゃんに教える義理はないでしょ」
「ええ~、じゃあなにぃ?」
「あのね、このプリントを、椎葉さんの家に届けてほしいの」
そう言って渡されたのは、今日の授業で使ったプリントや学級便りなどの紙の束だった。
「うわ、なんでこんなに多いの?」
「実は今まで何回か休んだ分を届け忘れてたみたいで、たまっちゃってたの」
「で、なんであたし?」
サボりを報告する義理がないというなら、欠席分のプリントを届ける義理だってないはずだ。
大体、椎葉の家の場所など知らないのだから届けようがない。
「場所は教えるから。未來ちゃんの家に近いみたいだし、ね? お願い!」
「えぇ~」
不承不承ながら、神崎から紙の束を受け取る。
今日もギターの練習に行くつもりだったが、どうやら断念するほかなさそうだ。
「ごめんね、埋め合わせはするから」
「ほんと!? ラペーシュのいちごショートね!!」
「う、うん……」
何かをもらうのに遠慮のない未來だった。
プリントの束を持って、てくてくと歩く。
神崎に渡された、椎葉の家の住所と地図の書かれたメモによると、なるほど、たしかに未來の家の近くだった。
「そう言えば、あの日も、シイバさんを見かけたのはこの辺りだったなぁ」
未來がバンドをはじめようと決意した日、椎葉のドラム演奏を始めて観た日を思い出す。
あれは、家から出てきたすぐの場面だったということか。
そんなことを考えながら、メモに書いてある家を探す──その住所は、すぐに見つかった。
ただし。
「え、本当にココ……?」
目の前にあるのは、ボロボロの小さなアパートだった。
『球磨川層』と、看板には書いてあるが、その看板も今にも風に煽られ飛んで行ってしまいそうな具合である。
一瞬、神崎が間違えてメモしたのではないかという可能性を真面目に考える未來。
が、集合ポストに『椎葉』の名前を発見し、どうやら本当にここが椎葉の家であることを理解した。
「んん、なんか、もっとパンクな感じの家かと思ってたよ……」
パンクな家とはどんな家なのか。
勝手に幻滅しつつ、未來はアパートの階段を昇っていく。
椎葉家の部屋は『204』。二階の一番奥の部屋だった。
インターホンがなかったので軽く扉をノックする。扉は、すぐに開いた。
「……げ、なんでアンタが」
「えっと……プリント、お届けに参りました」
気まずさを紛らわせようと、おどけてはにかむ。
椎葉はしばらく対応に悩んで目を左右させてのち、「まあ、上がれよ」と言って道を空けた。
「えっと……」
出された麦茶を一口飲んでから、未來は口を開いた。
「シイバさん、一人暮らしなの?」
「……まあ、この家見たら、そう思うわな」
そんな風に言うということは、未來の予想はどうやら外れたようだ。
自嘲気味に笑って、椎葉は自分用に出した水道水に口をつける。
「母親と、双子の弟。わたしを入れて四人暮らしだ」
「ん、お父さんは?」
脊髄反射で訊いてしまってから、未來は後悔した。
今のは、完全に踏み込みすぎな質問だった。
母親と弟二人との四人暮らしと、本人がそう言っているのだから、その事情を察して黙っておくべきだった。
しかし椎葉は気を悪くした様子もなく、もう一度笑って見せる。
「年末にな、離婚したんだよ」
「…………」
「こっちに越してきたのもそれが理由だ。こんなボロいアパートに住んでるのもな」
笑いながら、しかし瞳の奥はまったく笑っていないのを、未來は感じ取った。その様子に、相槌も打てずただ黙って話を聞くことしかできない。
「わたしら姉弟の親権は母親が勝ち取ったけど、養育費はほとんど取れなかった。だからこうやって、今も母さんは働きに出て四人家族全員分の生活費をどうにか作ってんだ」
ボロボロのアパート、客にしか出せない麦茶──ここに来てから目に入ったすべてが、椎葉家の苦労を表している。
それでも、その中にひとつだけ、様子が違うもの。
椎葉がステージで着ていたパンク風の衣装と、この間買い換えたばかりのドラムスティック。
「母さんも、わたしがドラムをやることには反対しなかった──子供思いな母親だよ。弟たちは揃ってサッカーやってるしな」
小さなタンスの上に、写真立てが置いてあった。そこには、優しそうな女性と、三人の幼い子供の姿が。
「まあ、ステージで多少報酬をもらってるから、道具買うのには困らないってのが唯一の救いだな。それがなけりゃ、バイトでもしなきゃいけないところだ」
「……シイバさんは、お金を稼ぐためにドラムやってるの?」
「そんなわけ、ねえだろ」
答えた椎葉の顔を見て、未來はまたもや失敗したことを悟る。
「そもそもドラムを始めたのは親が離婚する前の話だしな。今の生活になってからだったら、そもそも始めようとも思わなかったさ」
訊かなくとも、それはわかることだった。
多少なりともギターの練習を重ねたいまだからわかる──シイバのあの演奏は、ドラムが心から好きだからこそできるものだった。
だからこそ、未來は、あの演奏に惹かれたのかもしれない。
「こないだの、バンドに入ってくれないかって話な」
「……うん」
「うちがこういう状況だから、やっぱり難しいんだわ。さっき言ったろ、ステージで金貰ってるって──そのためにやってるわけではないけど、それがなければやっていけなかったのも、事実なんだ」
正直、学校の部活でやるような余裕はないよ──その言葉を最後に、未來は椎葉の家を後にした。
翌日。いつも通り学校が終わってすぐ、未來は茅子と連れ立って<ROCK HEARTBEAT>に向かう。
その道中で、茅子が気遣わしげに未來の顔を覗き込んできた。
「みくちゃん、今日ずっと静かだけど、何かあったの?」
多少静かにしていた程度で心配される未來はどうかと思うが、しかし彼女を知っている者からすれば、『静かな未來』というのは己の目がおかしくなったかと疑うほどに信じがたいものなのだ。
担任の神崎だけでなく、普段未來を遠巻きにしているクラスメイトたちすら、今日の未來には心配そうな視線を送っていた。
が、当の本人は何食わぬ顔でかぶりを振る。
「別に、何でもないよ」
「んー、本当に?」
「本当だってば。ほら、急がないと練習時間なくなっちゃうよっ!」
背中を押して急かしてくる幼馴染に、茅子は心配を払拭できないながらもとりあえずはその言葉を信じることにした。
そもそも調子の悪い未來というのが、そうそうない事態なのである。馬鹿は風邪をひかないし、馬鹿には悩みもない──そう自分に言い聞かせ、茅子は無理矢理納得した。
なおも背を押してくる未來に、「わかったから、自分で歩くよ」と笑う茅子。
彼女は、知らない。昨日未來が何を知り、そして何を思ったのかを。
そうそう悩むことのない未來が今まさに悩んでいることを、昨日行動を共にしていなかった幼馴染は、知る由もない。




