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高田わたるは命を愛する

 高田わたるが消えたあとの世界というのはどういったものなのだろうか。どうということもない、そんなふうに考える者がほとんどだと思うが、そこにあるべきものがないというのは、なにか不安になりはしないだろうか。

 高田わたるがやったことの多くは、当然ながらこの世界にほとんど影響をあたえなかった。


 7月後半の夏祭りの日。

 高田わたるの住む地域がめずらしく盛り上がる一日、その日ばかりは地元に帰ってくるという者もすくなくない一日、子どもは子どもなりにハレの雰囲気を楽しみ、若者は若者なりに無礼講を楽しみ、大人は大人なりに地域のつながりが存続していることに満足をおぼえる、そんな日に高田わたるは早川よしおの家で「ボーダーランズ2」というビデオゲームで一日を潰そうと画策し、その目論みはほぼ成功したといえた。

 ほぼ成功というのは、早川よしおの両親が当初の予定よりも早く夏祭りから帰ってきてしまったからで、高田わたるはそのような状況で早川家に居座れるほど太い神経を持ち合わせていなかった。


 車で送ってあげようか、という早川よしおの母親の提案を自転車だからと丁重に断り、高田わたるは夏の夜の停滞した湿気と熱気と潮のにおいの中、ペダルをこぎだした。

 中学生のころに乗り出してから一度も手入れをしていない安ものの自転車は、こぐたびにペダルはぐらぐらに揺れ、錆びついたチェーンはぎしぎしと不快な音をたて、劣化したゴムに手垢のこびりついたハンドル、歪に変形した前カゴ、すかすかのブレーキ、空気の足りていないタイヤ、段差に乗り上げるたび路面にリムがぶつかる感触、その全てが高田わたるにとって情けなく思え、早川よしおのぴかぴかのマウンテンバイクや、早川よしおと一緒に遊んでいたビデオゲーム、レアな銃と敵を探し求めてクエストをこなす、あんなに素晴らしく楽しいもの、あんなものが簡単に手に入る環境が自分にもあれば世界はもっと楽しく明るいものに変わるのに、変わるはずなのに。

 それなのに、錆びついたトタンの屋根の下、泥酔したぐうたら親父と生意気で醜い妹と不潔で変なにおいのする祖父母が(うごめ)いている、あの家に帰らなければいけない自分はなんてみすぼらしいんだろう。高田わたるはそう思った。


 今ごろ白石つぐみは地元の友人たちと楽しくやっているんだろう、と思う。男もいるんだろう、と思う。お酒を飲んだりしてるかもしれない、と思う。もしかしたら、と思う。やっちゃってるかもしれない、と思い、高田わたるは叫びたくなった。叫ぶかわりに、ペダルを踏む足に力をこめた。

 なにも考えたくないのに、考えたくないことの中でもいちばん考えたくないことを考えてしまうのは何故なのか、涙ぐんだ目で星空を見上げながら、高田わたるは全速力で自転車を走らせている。


 消えてなくなりたい。確かに高田わたるはそう思っていた。今までの人生の中でいちばんそう思っていた。

 ぼくが今こうして、何もかもが嫌になるほどに白石つぐみのことを考えたって、白石つぐみはぼくのことをちらりとも考えたりはしないだろう。ぼくはふとした瞬間に白石つぐみのことを考えてしまうけど、白石つぐみは目の前にぼくがいない限りは一瞬だってぼくのことを考えたりしないだろう。あまりにも、不公平で、あまりにも、残酷な話だ。どうしようもない。この気持ちはどこにも行き場がない。ぼくの中でただ腐ってゆくだけだ。じゅくじゅくに、どろどろに、ぐじゃぐじゃに、でろでろに、ぶじゅぶじゅに、れろれろに、腐り続けていく。もう嫌だ。なにもかもが嫌だ。こんな人生はもう嫌なんだ!

 高田わたるは、そう思っていた。


 道路の真ん中で小さいなにかが街灯の光りをはねかえした。高田わたるは自転車を止めた。その小さいなにかが動いているような気がしたからだ。すこし戻って、見てみるとゴマダラカミキリだった。道路を横断しようとしているようだった。

 高田わたるは、このままだと車にひかれてしまわないかと心配になった。なぜ飛ばないのか疑問に思った。

 高田わたるは昆虫全般を好むが、とりわけウルトラマンを倒したゼットンのモチーフとなったこの昆虫が好きだった。生木を食すため場合によっては害虫として嫌われる存在であるが、そんなところを自分と重ねている部分があったのかもしれない。

 すこし小ぶりな個体だった。車通りのすくない道とはいえ、すぐさきは国道と合流しており、国道にはびゅんびゅんと車が走っている。そこからいつ車が入ってくるか、高田わたるはハラハラしながらゴマダラカミキリの冒険を見守っていた。


 車は入ってこなかった。ゴマダラカミキリは、いまや歩道にさしかかっている。高田わたるが一仕事を終えたような気分になっていると、がやがやと若い声が重なるのが聞こえた。国道から祭り帰りの集団が海に向かおうとこの道に入ってきたのだった。手には花火らしきものを持っていた。高田わたるは焦った。集団の歩く速度とゴマダラカミキリの速度を比べると、ゴマダラカミキリはかなりの確率で踏みつぶされるように思えたからだ。

 高田わたるは決めた。身を呈してゴマダラカミキリを守ろうと決めた。とはいっても、ゴマダラカミキリが潰されないよう歩道にしゃがみ、集団が通りすぎるのを待つだけだった。

 だが、高田わたるにとってそれは苦行だった。集団は間違いなく高田わたるに注目するだろうからだ。歩道にしゃがみこむ男を見たら誰だってそうする。善意から声をかけたりするかもしれない。緊張と恥ずかしさで高田わたるの鼓動がはやまった。

 

 集団の話し声が止まった。確実に自分が理由だろうと高田わたるは思った。集団に背を向け、ゴマダラカミキリだけを見つめながら、いいからはやくいけ、ぼくに構うな、はやくいってくれ、そう高田わたるは願った。

「あれ、わたるじゃね?」

 最悪だ、高田わたるは思った。中学のころの同級生、内田ゆうやの声だった。デリカシーのない粗暴な男だ。内田ゆうやの他にも聞いたことのある声がいくつか。いずれも中学の同級生だった。

 もしかしたら——高田わたるはすこしだけ顔を集団の方に向けた。白石つぐみが見えた。真っ白い生地にうすい桃色のアサガオが咲いている、きれいな浴衣を着ていた。

「わたる、なにやってんだ、おめぇ」

 高田わたるの隣に内田ゆうやがしゃがみこむ。紺色の甚兵衛からのびる内田ゆうやの日焼けした腕が、高田わたるの視界に侵入してきた。手の甲から腕にかけていくつかの根性焼きの跡があった。やすっぽい香水のにおいと、ほのかな酒のにおいが高田わたるの鼻をついた。

「いや、カミキリ、ええと、これ……」

 しどろもどろになって、高田わたるはゴマダラカミキリを指さす。

「お、カミキリじゃん、すげぇ、懐かしいっぺ、これ」

 内田ゆうやの手がゴマダラカミキリをひょい、と掴み、まるで自分の獲物であるかのように皆に見せびらかした。

 そのへんをすこし探せばいつだっているのに、懐かしいもくそもあるものか、高田わたるはそう思った。

「ほら、すごくね? こいつ、キーキーいうんだぜ、つぐみ、ほら」

 内田ゆうやは得意げにゴマダラカミキリを白石つぐみの顔の前にもっていく。白石つぐみは、困ったような笑顔で、やだ怖い、といって逃げようとした。その光景を高田わたるはどこか遠くの出来事のような気持ちでみていた。ゴマダラカミキリも内田ゆうやも白石つぐみも自分から遥かに遠い場所にいるような気がしていた。

「うおっ」

 内田ゆうやが声をあげた。ゴマダラカミキリを落としてしまったようだった。高田わたるが自分でも驚くほどの速い動きを見せた。内田ゆうやからゴマダラカミキリを絶対に助ける、そんなわけのわからない決意があった。

 白石つぐみの足下に、ゴマダラカミキリはいた。白石つぐみと目が合った。

「つぐみ、動かないで」

 高田わたるはゴマダラカミキリの前に丁寧に人差し指をさしだす。ゴマダラカミキリが高田わたるの人差し指に登ってきた。高田わたるはそれを落とさないようにゆっくりと、植え込みの葉に移した。


 自分の役目は終わった、高田わたるはそう思った。一刻もはやくここから離れたいと思い、自転車に向かった。国道を渡ってしばらくいけば、高田わたるの家だ。帰りたいわけではない。ただ、もうここにはいたくなかった。皆に挨拶もせずに走り去ろうと思った。

 突然、高田わたるの両肩に誰かの手が置かれた。優しく、ねぎらうかのように、肩をもまれた。

「わたる、優しいね! うん、偉い!」

 驚いて高田わたるが振り向くと、白石つぐみの弾けるような笑顔が目の前にあった。

 国道をダンプカーがものすごい速度で通り過ぎていった。

 高田わたるをはね飛ばすはずだったダンプカーだった。

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