高田わたるは急いでいる
酵母に出そうと思っているのでご意見お待ちしています
ふっくらと焼き上がりますように……
7月後半のとある日。朝も早くから、アブラゼミ、ニイニイゼミ、ミンミンゼミのオスどもがやかましく求愛のロックンロールを奏でている。実はクマゼミもその輪に加わっているのだが、この辺りではまだまだ個体数の絶対的な少なさゆえに、よほどのセミ好きでないと聞き分けるのは困難を極めるにちがいない。
さて、ここに一人の少年がいる。蝉時雨の中、友人の家にむかって真っ赤な顔で一生懸命に自転車を走らす、この少年こそが今日という日に異世界へと転生することとなる、高田わたるその人である。千葉県立富沢高等学校に通う、どこにでもいる普通の高校生——といいたいところだが、そうもいかない。
第一に、彼にそのようなことを伝えるとどうなるか。
彼は、自分は読書家であり、サブカルチャー全般にも造詣が深く、野蛮な同級生たちとは一線を画す、知性溢れる存在であると信じて疑わないのである。
実際のところはどうなのかと問われると、それはちょっと……ううむ、いわゆるひとつの自意識過剰、のようなものではないかと、まあ、いわざるを得ないと、考える人間も、中にはいるのではないかと、予想されるが…………うん、そのあたりのことは人それぞれというもので他人がとやかくいうべきではないのである!
とにかく、きみはどこにでもいる普通の高校生だね、と彼に伝えた場合は、彼がふてくされてしまい、その後は何をいっても、はあ、とか、うう、しか声を発しない可能性も考慮すべきであるとだけいっておこう。
第二に、彼の家庭である。平たくいってしまうと、彼の家は貧乏である。まず、父親が労働をしない。かろうじて、労働といえなくもない行動は、近所の海に釣りにゆくぐらいのものである。もともとはアニメーションの背景を描くことを生業としていて、個人のスタジオを構えていた時期もあるのだが、コンピューターグラフィックスの台頭などにより仕事は減少、加えて妻、つまり高田わたるの母親との離婚のショックでアルコールに溺れてしまい、請負っていた仕事の期日を過ぎることが多くなり、気づけば無収入になっていたのだ。
現在は芸術家を自称して、日がな大学ノートにボールペンを用いて抽象的なイラストを描き殴っているか、釣りをしているかのどちらかという状態で、いってしまえば無職ということなのだが、それなりにへらへらと楽しく生きているようで何よりである。
では、高田家の収入はどうなっているのかと問われると、高田わたるの祖父母の年金が全てである、という他ない。いやはや、なにかと悪くいわれがちな年金制度であるが、高田家にとっては一家五人の生命線、まさに年金制度様々なのである。
勘の鋭い読者諸兄の中には、うん? 一家五人? 高田わたるに父親に祖父母に、母親はいないわけだから……四人じゃないのか。そう訝しがる者もいると思われる。そう、高田家にはもう一人いるのだ。高田わたるの妹である、高田しほという少女が。にわかに色めき立つ御仁もいるかもしれないが、今回は彼女は関係ないゆえ、申し訳ないが詳しい紹介ははぶかせて頂く。ちなみに、富沢市立笹岡中学校3年A組における彼女のあだ名は鼻くそグルメである。
そんな訳であるからして、高田わたるはどこにでもいる普通の高校生である、と断ずることはできないことを理解して頂けただろうか。