ムーリア暦1△22年 菖蒲月 私は髪結い係り --- その2--- ( 現代語訳 ・ レイチェル )
ヤルナ男爵夫人が、袖をまくって見せてくれた右腕。
右手が利き手の人にとって、ひいては『 髪結い係り 』にとって、何よりも大事で痛める頻度が高い右手と右腕。
その腕を見た私は、思わず声をあげそうになった。
なぜって、ヤルナ男爵夫人の右肘から手首の手前にかけて、赤紫色をした痣のようなものが出来ていたからだ。
その痣に、私は見覚えがあった。
「 ルーヴェ・ネルダ病・・・ですね。ヤルナ男爵夫人様 」
私の問いかけに、ヤルナ男爵夫人は少し悲しげな表情になるも、それもつかの間で、すぐにそっと微笑むと、大きく頷かれた。
『 ルーヴェ・ネルダ病 』
ムーリア大陸における不治の病。
ある日、突然、皮膚に赤紫色をした痣のような内出血が出来、だんだんとそれが広がって、その場所の筋肉や内臓などを冒していき、ついには心臓にまで到達して死に至る・・・
と、言う病気だ。
家族や他人に感染することはなく、病変した皮膚がいくら広がっても、何故か首から上・・・頭から顔には広がることはない。
原因は不明。
しかし、オルダ、シノン、カミワの三国にのみ生える
とある薬草
を、煎じて飲み続けることにより、病気の進行を遅らせることは可能。
また、病変部分が腕や足の場合は病変部分の少し上の辺りで腕や脚を切断することにより、病気を完治させることも出来る。
この病気の恐ろしいところは、皮膚の内出血が、転んだり物にぶつかったりした時に出来る皮下出血とほとんど同じで。
それゆえに、内出血が広範囲に広がっていくまで、この病気だと気付くことはまず出来ず、
病気の早期発見が極めて難しい
と、言う事だ。
「 お薬は・・・服用していらっしゃるのでしょう? 」
私は、ヤルナ男爵夫人に尋ねた。
「 ええ。 でも、完治させるには腕の切断しかないの。 わかるでしょう? アリス。 腕を切断する と、いう意味が 」
私はコクリと頷いた。
ヤルナ男爵夫人は、王妃様の髪結い係りだ。
腕の切断は、同時に、髪結い係りとしての終わりを示し、同時に侍女を辞めることになる。
だからと言って腕を切断しなければ、いくら薬を飲み続けたとしても、そう長くは生きることは出来ない。
「 お医者様は・・・なんと? 」
「 このまま腕を切断しなければ、長くて3年だと。 また、完治するために腕の切断ができる制限時間は、進行が早い場合は後1年・・・。病気の進行が遅れた場合でも、後1年半~2年だとね 」
「 3年???!!! 」
私は唖然とした表情のまま、ヤルナ男爵夫人を見つめることしか出来なかった。
どれだけ時間が過ぎたのか、卓の上に、太陽が窓の外の立ち木の影を落とし始めた頃。
ヤルナ男爵夫人は、強いまなざしで私を見つめると、こう仰った。
「 だからね、アリス。 貴女に私の後任の髪結い係りになってもらいたいのよ 」
と。
「 そんな!! 私、出来ません!! 」
「 貴女しかいない・・・いえ、貴女じゃなければ出来ないことなの 」
「 でも・・・ 」
「 何人もの侍女を見てきたし、主人の伝手を頼って、国中で腕のよい調髪師を探してもみたわ。 しかし、今まで王妃様の御髪を任せられる人にはめぐり合えなかった。 そんな時、仲間の髪を結う貴女の姿を見て、『 この女人 だ!! 』 と、思ったのよ。 だから・・・ね??? 」
「 男爵夫人・・・さま 」
「 髪結いの技術や儀式の時の髪飾り選びなど、出来る限りの事は、私がこれから貴女に教えるわ。 幸い私の右手は、まだ髪結いが出来るし 」
「 でも・・・今、左手で茶碗を・・・ 」
「 ああ、これは・・・ 」
ヤルナ男爵夫人様は、いたずらっ子のような表情でクスリと笑われました。
「 これは、いずれ右手を切断した時のための訓練なの。 この年で・・・急に利き手を変えることは難しいでしょう? だから 」
「 はぁ・・・ 」
それを聞いた私は、急に身体から力が抜けていくようでした。
そして、その瞬間
私は、こう言っていました。
「 私、王妃様付きの髪結い係りになります 」
と。
私が王妃様付きの 『 次期 髪結い係 』 になるという、事務的な手続きが終わったのは、ヤルナ男爵夫人から申し出を受けた10日後だった。
その翌日から、早速、ヤルナ男爵夫人の許で、髪結い係 としての職業訓練がはじまった。
最初は勿論、王妃様の髪に触らせてなんかもらえない。
王妃様の御髪を整えるヤルナ男爵夫人の傍に立って、櫛や結い紐などを手渡したり、髪を巻くために御髪にあてる巻鏝をお湯で温めたりするのが、私の役目だ。
特別な事情・・・ガイア教の儀式や舞踏会、特別な公式行事などがある日や、前夜にそられらが行われた日以外は、王妃様は6時にお目覚めになられる。
目覚められた王妃様は、洗面と着付けで約1時間を要するので、ヤルナ男爵夫人と私が王妃様の御髪を結い上げるのは早くて7時からだ。
私とヤルナ男爵夫人は、午前中の調髪の時は水色か淡い緑色のお仕着せ( 侍女の制服 )、午後から夕方の調髪の時は深緑色のお仕着せ を着て、その上に胸当て付きの白いレースの前掛を締め、しなやかな薄手の革手袋をはめた姿で、王妃様のお傍に向かう。
着付けが終わった王妃様は、まとったばかりの衣装が汚れないよう、床まで届く長さの、白か淡い緑色の被布をまとったお姿で、『 化粧の間 』と、呼ばれる部屋にしつらえられた、三枚鏡の大きな鏡台の前に腰をおろしていらっしゃる。
毎朝、王妃様の御髪を結い上げるのにかかる時間は、約1時間。
朝の調髪が終わると、これまた特別な公務がない限り、午後1時と正餐前の午後7時に王妃様の御髪を整えるのだが、その間の時間は自由時間となる。
が、その間の時間に、私はヤルナ男爵夫人の控えの間に行って。
男爵夫人付きの女中や、私付きの女中を相手に、髪結いの特訓を受ける。
髪の梳き方
巻鏝の使い方
結い紐で髪を縛る強さ
髪の洗い方と、洗髪に使う生卵の調合方法
朝に結った髪を、昼の調髪と夜の調髪の時にどうアレンジするか
髪飾りや宝冠、簪、リボンや造花の着け方や、どう髪に着けたら落ちにくいか
ガイア教やエリュシオン教の数多い儀式の内、どの儀式の時に、どんな髪型に結い上げて、どの髪飾りや簪を着けるか
と、言う事まで。
「 アリス、そのやり方では王妃様の髪が痛んでしまいます!! 」
「 もっとゆっくりと櫛を動かして!! 」
「 ダメダメ!! 髪がもつれてしまうわ 」
ヤルナ男爵夫人の特訓は厳しく、特訓が終わってから何度自分の部屋で泣いたかわからない。
でも、何とか王妃様の髪が結えるようになったのは、ヤルナ男爵夫人が腕を切断できる制限時間ギリギリの・・・。
ヤルナ男爵夫人から、次期髪結い係りになるよう、申し出があった1年3ヶ月後のことだった。
それから今日まで、約3年・・・。
私は 髪結い係り として、王妃様にお仕えしている。
王室からの毎月のお手当ても、侍女として仕え始めた頃と比べると断然よくなった。
王妃様のお供で、旅行も出来るし、王妃様が要らなくなった、気に入らなくなったからと、髪飾りや結い紐などを私に下賜なされることもある。
何より王妃様の許に 『 ご機嫌伺い 』 と、称して、時折おいでになられる貴族の方々が、一介の髪結い係りに過ぎない私にまでも 『 手土産 』 を置いていかれるので、私も実家に多少の仕送りが出来るようになった。
だが、よいことばかりではない。
一番の苦痛は、調髪の最中に王妃様が話されたグチや王宮内の秘め事を、
誰にも言ってはならない
ことだ。
だから・・・
それらの事を、これからこの日記帳に記していくことにする。
自分の心を少しでも軽くするために。