表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

もののけ堂

もののけ堂 -もののけ一丁目-

作者: 樹杏サチ

もののけ堂シリーズとして、短編連作として掲載させていただきます。

一話完結のお話ですが、話を追うごとに、散りばめた秘密が明らかになっていきます。

 もののけ堂


 彼に初めて出会ったのは、残暑の厳しい九月の初めだった。

 

 ふと空を見上げれば、雲を探すほうが難しいほどの晴天で、少し歩いただけでも制服のシャツが地肌に貼りついた。いつもは一番上までしっかり止めているボタンをひとつ外して、生ぬるい風を送り込む。気休めでしかないが、やはり秋らしい、少し前よりほんのわずかに冷たくなった風が、少年の心を穏やかにさせた。

 なんとなくの、気まぐれの行動だった。

 なぜか毎日好んで食べるご飯とお味噌汁に、今日はご飯に梅干をのせて食べてみようか。それともお新香と一緒に食べてみようか。その程度の気まぐれであって、特に理由があって、普段降りる駅とは違う駅に降りたわけではない。窓から映る景色を流していて、なんとなく、降りてみよう。そんなことを思って、無意識のうちにホームを出ていた。

 小さな踏切を越えて、気の向くままに歩いていても、ほとんど人とすれ違うことのないほど、静かな町だった。左右を見渡せば、遠くに山の稜線がうっすらと望めて、右側には小学校だろうか、広いグラウンドの中で、小さな子供たちが暑さなど感じていないかのように走り回っていた。人が一人通れるくらいの細い歩道を挟んだ反対側には、シャッターのしまったままの店舗や、今はまだ静かな駄菓子屋が並んでいる。もう少しすれば、グラウンドで遊んでいた子供たちも、この駄菓子屋の暖簾をくぐるのだろうか。棒あめやカステラ、チョコレートなどの商品が見え、自分も小さな頃、祖母を連れてあれもこれもとねだって困らせたことを思い出す。最終的には、祖母が微笑いながら仕方ない、と買ってくれたものだ。

 やがて、駄菓子屋の風鈴の音と一緒に少年がゆっくりと店の前を通り過ぎると、次第に坂が多い場所に出た。

 車の音はもちろん、人の声も気配も感じられない静かな場所。急勾配を上りきり、少し乱れた呼吸を整え、立ち止まったまま辺りを見渡す。左には神社に続く道があり、楕円形の葉を茂らせた大きな木がたくさん立ち並び、まるで傘をさしたかのように濃い影を落としていた。太陽はまだ真上にあるというのに、雑木林の中にあるせいか、ひどく薄暗く感じた。

 神社がある場所というのは、どうしてこうも異質な空間を思わせるのだろう。

 少年は棒立ちになったまま、遠くに見える鳥居の朱色を眺めながら思った。だが、不快感のある異質さではない。少年にとっては、どちらかといえば心地よいもので、ふとたまにこうして一人ふらふらと立ち寄りたくなるときがあるのだ。この場所、空間に立つだけで、自分の中にためこんでいた負の感情が、どうでもいいことのように思えてくるから不思議だ。

 高校に入って、初めての夏休みが終わり、またどうでもいい日常が始まった。

 教室に入れば、近くの席の同級生と挨拶を交わし、授業が始まり一日の半分近くを学校で過ごす。とりたて特技があるわけでも、特徴のある顔立ちでもない。どこにでもいる真面目そうな学生だった。一日経ってしまえば、どのような人物だったか、容姿だったか、それすらも覚えていないだろう平凡な少年である。

 学校でいじめられることもないが、特別仲の良い友達もいなかった。それなりに話し、愛想笑いで苦手な会話をかわし、棘がなければ花もない。誰かと話し終わったあと、少年はひどい虚無感に襲われた。

 そうしていつも通りの帰りの電車に乗り込んで、ふと気付いたらこんな場所まで来ていた。

 思わずため息が漏れる。手に提げていた学生鞄がどっしりと重くなったような気がした。

 知らない場所に来て、何がしたかったのだろうか。たとえ一時逃げたところで、明日はまた学校に行き、また同級生に囲まれて牢獄の中のような生活を続けなければいけないというのに。だが、一時にせよ、穏やかな気持ちになれたのは確かであった。ほんのわずかな時間だったが、学校のことを思い出さず、高揚感を覚えたのも事実だ。

 そろそろ戻ろう。そう考えて視線を反対側に向けたとき、古い一軒家が並ぶ道沿いに、更に古びた――というよりは時代錯誤な軒を見つけて、少年はついそちらに向かって歩いてしまっていた。近づくにつれ次第にその全容が姿を現す。木造の日本家屋で、開け放たれたままの玄関の右横には、斜めに倒れかけた看板が掲げてあった。随分と長い年月を経たのだろう。看板の文字は掠れて読めないが、最後の文字が唯一「堂」というのだけはわかった。以前、修学旅行で行った京都の街並みにあるような、風情ある建物だというのに、掃除がされていないのか、看板はもちろん、玄関先は埃や砂で白くかすんでいる。

(古本屋……?)

 開け放たれたままの戸の中をおそるおそる覗き込むと、正面にカウンターが設置され、小さな扇風機がゆっくりとぎこちない動きで回っていた。更に奥のほうには、背の高い本棚があり、隙間なくぎっしりと並んだ本が、少年を驚かせた。

 金銭を受領するための木のトレイと、「御用の方は鈴を鳴らしてください」と書かれた小さな立て看板の隣に、林檎の実ほどの大きさの鈴が置いてあることから、商売のために開かれているのはわかるが、それにしても民家に紛れてこのような場所に古本屋があるとは思ってもいなかった。

 店に入る、というよりは他人の家に無断で侵入するような気分だった。店内には誰一人として姿は見えず、奥の部屋に続くのだろう、かけられた暖簾が扇風機の風に揺られているだけだった。

 並んだ本のタイトルを端から順番に見てみたが、見知ったタイトルはもちろん、作者も知らないものばかりだった。

「いらっしゃい」

 突然、背後から聞こえてきた声に、少年は驚いて手にした本を落としそうになった。棚に本を戻しながら振り返ると、いつの間にかカウンターの奥に腰をかけ、両足をカウンターの上に投げかけながらうちわを扇いでいる男と目が合った。

 歳はおそらく三十代前半か、もしかしたら二十代の終わりかもしれない。紺色の長着の上に薄い灰色の羽織を着て、足は素足のまま。肩まで伸びた髪は癖毛なのか激しく波打ち、まん丸のフレームのない薄い色付き眼鏡をかけている。どこかあどけなさを残した、黒目の大きな好奇心に溢れる瞳が少年を見たまま笑みを浮かべていた。うっすらと伸びた髭は、どう見ても身に気を使って伸ばした、といったものではなく、中途半端にほったらかしにしていたら伸びてしまった、といった風だった。穏やかに笑んではいるものの、外見の胡乱さもあってか、少年を見定めているような、そんな様子にも見えた。

 何よりも、気配すら感じさせず、いつの間にかカウンター内に落ち着いている様子に、少年はひどく狼狽した。

「す、すみません! 勝手に見てしまって……」

 慌てて頭を下げた少年に、男はうちわを振っておおらかに笑ってみせた。

「いやいや。なにも謝ることはないよ。こんなオンボロだけど、一応商売のために開けている店だからね。で、何か面白そうなものは見つかったかな?」

 男がふっと微笑いながら細めた目を見た瞬間、少年は寒気に似た震えを覚えた。店内は熱がこもっていて、扇風機のぬるい風だけではとてもじゃないけれど、涼しいと言えるにはまだほど遠い。それだというのに、腕にはぷつりと鳥肌すらたっている。

「いえ、あの」

 隙間風のような、情けないほど小さな声でなんと答えたらいいのか口ごもっていると、男の足がカウンターに置いてあった鈴を蹴飛ばし、大きな音を立てながら床を転がった。咄嗟に男から逃げるように視線を鈴へと向ける。すると、どうしたことだろう、りんりん、と消え入りそうなほど小さくなった鈴の音とは裏腹に、大きな羽音が近づいてくるのがわかった。

 何事だろう、と少年が辺りを見渡すが、男は平然と羽音など気にしていない様子で立ち上がり、落とした鈴を拾い上げた。再び小さな音が男の手の中で鳴ったが、テーブルの上に再び置いた頃には、すでに鈴の音は消えていた。

 知らぬうちに羽音も聞こえなくなり、気のせいだったのだろうか、と少年が男に視線をやった瞬間、思わず息を止めていた。

 真っ黒な烏が、男の肩にとまっていたのだ。丸いビー玉のような瞳はじっと少年を見つめたまま、烏は身動きひとつさせず、大人しく男の肩の上で止まっている。扇風機の風に、烏の躯を覆う羽が揺れていた。

「おや? 君、もしかしてやっくんの姿が見えるのかな」

 そう訊ねる男の声は不愉快なほど面白そうに聞こえた。少年が少しの間考えた末、小さく頷くのを見ると、更に面白そうに声を上げて笑った。

 だが少年には、その問いかけの理由がわからなかった。ただの烏ではないか。鈴の音に惹かれてやってきたのかそうでないのかは分からないが、人間の肩にとまる烏など見たことはないので、珍しいことには変わりはないが、見えているからどう、ということもない。家の近所には、夕方になると五月蝿いほど烏が鳴くので珍しくもない。そのたびに母は顔を歪めて毒づいているのを、何度も目にしている。ただ突然のことで驚いただけだ。だが、烏の視線を跳ね返すように見つめていると、ふと違和感に気付いた。何だろうか。普通の烏と一見変わりはないように思うのだが、この不安を煽るような違和感は。

 そう考えていた矢先、視線が烏の足元に止まり、少年がぎょっと目を見開いた。

 三本。少年の記憶が正しければ、烏の足は二本だったはず。しかしどうしたことだろう。少年の目には、烏の足が三本に見えるのだ。

 逃げるように逸らした視線の先で、少年の戸惑いなどまるで気付いていないかのように、男が平然とうちわを扇ぎながら、カウンターの上に伸ばした足を組みかえた。その衝動で再び鈴が小さく鳴る。音に反応した烏が、ゆっくりと男へと向いた。

「俺を店番代わりにするのはやめてくれないか」

 嘴が揺れ、男とは違うしっとりとした低い声が少年の耳に届いた。

 思わず開いた口を閉じることすら忘れて、喋る烏を凝視した。

 三本足なのをのぞけば、どこにでもいるような烏。だが、確かに喋ったのはこの烏なのだ。

「店に立つほどつまらないものはないんだよね。客だって滅多にこないしさ。それなら奥で茶をすすりながらテレビでも見てたほうがよほど有意義だと思うけどね」

「ならば店を畳めばいいと何度も言っている」

「でもほら、こうやってたまに来てくれるお客さんもいるから」

 おそらく店主なのだろう男は、店主らしからぬ言葉を続けながら最後に「ね?」と少年に同意を求めるように笑った。隣で「話にならない」と呟きため息を洩らしたのはやはりあの烏なのだろう。いまだ少年の目の前で起きていることが信じられないほど現実離れしていて、驚きをすでに通り越したら、もう唖然とするしかない。

「八咫烏のやっくん。ここに来る途中に神社があったでしょ? 普段はあそこにいるんだけど、鈴をこうして鳴らしてやるとね、すっ飛んでくるんだよ。普通はやっくんのこと見えないお客さんばかりだから、奥の部屋で寝ていてもやっくんが起こしてくれるんだよ」

 はぁ、と曖昧に返事をすると、やっくん、と可愛らしく呼ばれた烏が無表情に少年を見た。

「名はなんと言う」

「五十嵐、棗……です」

 烏に敬語を使うのはなんだか釈然としないが、口調などから伺える気迫があまりにも泰然としていて、思わず畏まってしまう。

「棗くん、とりあえずそんなところで突っ立ってないで、腰掛けながら本でも読んだらどうかな。古い本しか置いてないけど、それなりに面白いと思うよ。僕は奥の部屋にいるから、用があればやっくんに伝えてくれればいいよ」

 そういい残すと、男は裸足を引きずるように歩いて暖簾をくぐって行ってしまった。残された烏と棗は、お互い無言のまま少しの間みつめ合っていたが、なぜか居た堪れなくなって先に視線を逸らしたのは棗のほうだった。

 すっかり店を抜け出す機会を失った棗は、仕方なく本がずらりと並ぶ店の奥へと歩いていった。まだ烏の視線を感じるものの、奥へ奥へと進むうちにそういったものも薄くなり、人の視線の入らない店の一番端までくると、ひどく落ち着いた。

 男が言っていたように、本当にお客さんが滅多に来ないのだろう。店内のいたる所に大きな埃の塊がたまっている。本と本の隙間、空白になった棚のスペース。本を手に取ると、埃のせいでざらりとした触感が、棗の手にまとわりついた。神経質なほど綺麗好きな棗にとって、ありえない状態だ。思わず眉根が歪むのを、棗はしっかりと自覚した。

(なんか適当に読んで、少ししたら出て行こう)

 ちょうど木のベンチが置いてあり、少しの時間を過ごすにはちょうどいい場所だ。若干、埃臭いのが気になるが、入ってしまった自分が悪い。そう思うことにして、諦めて一冊の本を棚から抜き取った。黒いハードカバーの本。厚みは一般的な本の厚みで、薄くも分厚くもない。読書はもともと好きで、常に鞄に一冊は持ち歩いている。今日も鞄の中には最近文庫化されたばかりのミステリーの本が二冊入っていた。謎解きは得意ではないが、ミステリーならではの緊張感や、事件が少しずつ解決されていく様子は、数学の問題が解けたときの充実感に似ている。平凡で、何気ない日常を過ごしているからこそ、そういった高揚感を望んでいるのだろうか。

 そんなことを考えつつベンチに腰をかけると、手にした本に積もった埃を手で払いのけた。だが不思議な本で、背表紙にも、本の看板ともいえる表紙自体も真っ黒のまま、文字ひとつ書かれていなかった。

 どのような本なのだろうか。首を傾げつつ、もしホラーだったらすぐに本棚に戻そう。不安よりも、期待のほうが大きく、棗は逸る気持ちを抑えながら表紙を開いた。

 古い本なのだろう。黄ばんだ紙面に並んだ文字を追いながら、棗はぎくりとした。

 登場人物の名前が、自分と同じ――五十嵐棗。

 また読み進めていくうちに、危惧していたものが現実となった。心穏やかではない自分を落ち着かせようと、一旦本を閉じ、目を閉じる。暗闇にぽうっと浮かぶのは幼い頃の自分であり、今まさに本に書かれていた姿――小学校に入ったばかりの棗の姿だった。


*****


 ちょうど、夏祭りに来ていたときだった。

 右手には母、左手には祖母と手を繋ぎ、前方を一足先に歩く父の背を見ながら、普段見ることのない出店をちらちらと見渡した。まだ小学校に上がったばかりの棗は、夏祭りにしか見ることのできない出店という存在が物珍しく、まだ数回しか体験していなかったが、それでも夏の楽しみのひとつとなっていた。林檎飴やチョコバナナ、鉄板の上で踊るように焼かれる焼きそば。ソースの甘辛い匂いが棗の空腹を刺激し情けない音をたてる。だが、母も祖母も川辺から見える花火を楽しみにして来ていることを知っていたため、食べたい、の一言を飲み込んだ。前からすれ違う同じ年の頃の子供たちが、狐のお面をかぶって水ヨーヨーを振り回しているのを見ても、ぐっと唇を結んで我慢した。

 それらから視線を逸らし、ふと店と店との間、狭い隙間をちらりと見たときだった。

 見ようと思って見たのではない。本当に偶然の出来事だった。思わずどきりとし、足が竦んでその場に立ち尽くしてしまった。

 急に立ち止まった棗を訝しがり、母も祖母も立ち止まり棗を見た。

 真っ青になった棗の様子を見て、母は腰を折り心配そうに棗の目を見て首を傾げた。

「どうしたの?」

 母の呼びかけにも答えず、ただどこか一点を見たまま呆然としてしまった息子の肩を母が力いっぱいゆすった。

 肩から伝わる暖かい温もりと振動ではっと我に返り、棗は母と祖母を交互に見た。そして躊躇いつつも、まだ短い指で店と店との間を指した。

 母は視線を棗から、指差す場所へと移した。だが、棗が真っ青になりながら震える指を指す場所には何もない。出店で出た生ごみが、半透明の袋にいっぱいつまって二つ置かれているだけだ。

 再び棗のほうへと振り向き、母は落ち着いた声音で訊ねた。

「何かあるの?」

 棗は頷きながらも、視線を逸らせずにいた。いまだ心はあの隙間にとらわれたままだった。

「女の子……真っ赤な着物を着てる子がずっとこっちを見てる」

 そう。真っ赤。棗はその着物を見てぎょっとした。あんな隙間に入り込んで膝を抱え込むようにして座っているだけでも不思議な子だな、と思うのに、あの着物。白地の布が、真っ赤な何かに染められているようにも見えたのだ。赤い血を流し込んだかのように。

 それに、あの子は見つけたときからずっと、棗を凝視しているのだ。逸らすことなく、瞬きひとつせず。顎のラインで切り揃えられた真っ黒の髪も、白目に浮かぶような黒目も、何一つ動かない。

「――誰もいないわよ?」

 店の隙間を爬虫類でも見つけたかのような表情で一瞥すると、そのままの表情で今度は棗を見た。幼い棗にも嫌と言うほどわかる、蔑視の瞳だ。

「まぁ、そんなに怖い顔をするもんじゃないよ」

 祖母が棗を庇うように、母との間に立つと棗の頭を撫でた。ただそれだけのことなのに、恐怖に竦んでいた足がすっと力を取り戻したように感じた。棗は祖母の皺だらけの手をとりぎゅっと握った。

「お義母さん、甘やかさないでください。棗が学校で嘘吐き呼ばわりされていじめられたらどうするんですか」

「とにかく、そう頭ごなしに叱りつけるもんじゃないよ。――ほら、向こうで呼んでるよ」

 言って、祖母は少し先を歩く父を視線で促した。ずっと先のほうで、父が母を呼ぶ声が聞こえる。父の周りには、ビニールシートを敷いて、これから始まる花火に備えて場所を確保している人たちで埋まっていた。父の左手にも、筒状にまとめられたビニールシートがある。だが、ここから見える範囲には、すでにそれを広げる場所はあいていない。きっと、母と一緒に場所を探そう、そんなことを頼みたいのだろう。

 母はため息をついて立ち上がると、祖母に向き直った。

「すみません、棗をよろしくお願いします」

 そういい残すと、祖母が頷く前に急ぎ足で父のもとへと歩いていった。しばらく母の小さくなっていく後ろ姿を見つめていたが、棗はたまらず祖母を見上げた。

「ぼく、嘘言ってないよ」

 祖母は今にも泣きだしそうに顔を歪めた孫と視線を合わせ微笑った。

「なっちゃんが嘘を言ってるなんて思ってないよ」

 祖母は棗が物心ついた頃から「なっちゃん」と呼ぶ。男の子なんだから、ちゃん、なんて言わないで、と何度言っても直らない。小学校にあがって、そろそろやめてくれるかと思ったが、祖母にしてみれば、たとえ大人になっても棗は「なっちゃん」なのだろう。普段その呼び方を不満に思う棗だが、ことのときばかりはいつもどおりの呼び名に安堵した。

「大人になるとね、考え方が頑固になるんだよ。だから自分に見えないものは、信じられなくなってしまうんだね」

「わからない……どういうこと?」

 首をかしげて祖母を見上げる。祖母は棗の手を引きながら、ゆっくりと歩き出した。

「なっちゃん、もし今婆ちゃんの目の前に幽霊がいるよ、って言ったらどう思うかい?」

 言われてギクリと唾を飲み込んだ。無意識に体がこわばる。だが祖母の目の前には何もいない。ただすれ違う人たちや、遠くで花火を待ち望んでいる人たちがビニールシートの上で寛いでいる姿しか、棗の視界には入ってこなかった。

「……いるの?」

「もしいたら、なっちゃんどうするかい? 婆ちゃんが嘘を言ってると思うかい?」

 言われて棗は必死に考えた。見えない。それらしいものも感じられない。もし祖母の目の前で一つ目の坊主が両手に棒飴を持ちながら踊っている、なんて言われてもにわかに信じがたい。だって、見えないのだから、どう信じたらいいのかわからない。だが不気味だな、とは思う。

 棗はそう考えて、後ろを振り返った。

 もう随分と先ほどの場所から離れてしまったから、ただ遠くて見えないだけなのか、それとも最初からあそこには誰もいなかったのかは今となっては確かめるすべはないが、棗の目には何も映らなかった。血に濡れたような着物を着た、薄気味悪い女の子は見えない。店と店の隙間からほんの少し突き出た生ごみの袋だけがあるだけだった。しかし確かに棗は見たのだ。はっきりと断言できるほど、あの女の子の存在感は強い。

 でも、母にはきっと見えなかったのだろう。だからあのような目で棗を見たのだ。今の棗と同じように、母も不気味だと感じたのだろう。ならば、これから先、何か見えても言わなければいい。自分の中だけで納得し、認めればいい。そうすれば、母も祖母も友達も、みんなから嘘吐きなんて呼ばれずにすむ。母を困らせることもきっとない。

 そう。そうなんだ。

 棗がそう納得したとき、近くて遠い場所で、花火があがった音が響いた。



*****



「棗くん、時間は大丈夫かい?」

 つい、こくりこくりと頭が下がっていた棗は、男の呼びかけではっと意識を取り戻し顔を上げた。手に持っていたはずの本は、知らず膝の上に置きっぱなしになっていて、随分と首が凝っているように感じた。それだけ長い時間、眠ってしまっていたのだ。

 ふと丸い格子窓の外を見てみれば、既に橙色の空は薄い闇に覆われようとしているところだった。まだほんのりと明るさを保っている光が、棗の細い腕を抱くように包んだ。どこから夕飯の匂いが漂ってきているのがわかる。焼き魚だろうか、香ばしく焼きあがった秋刀魚が食卓に並ぶ様を思い浮かべて、そういえば、昔魚の骨をとるのが苦手で焼き魚が夕飯に出るとわかるとひどく落胆したものだ。あれから随分と趣向も変わり、秋刀魚をおろしポン酢で食べるのが、秋の楽しみになった。

 懐かしい。

 目の前にいる店主の男の存在など忘れて、棗はいまだ夢の中で見た幼い頃の自分を思い返していた。あのとき、あれからどうしたのだろうか。そうだ、確か花火も終わり、出店の前を再び通って帰るとき、祖母が林檎飴を買ってくれたのだ。顔の半分ほどもある大きな飴を、顔が汚れることも気にせずかぶりついた。そうして、またあの場所を通った。

 赤い着物を着た女の子は、やはりそこにいて、紅葉のような手のひらを棗に向かって振った気がしたが、母も父もいたため振り返せなかったことを家に帰った後も後悔した。一度だけ少女に一瞥をくれたあと、見なかったふりを続けてそのまま母の手に繋がれながら暗くなった道を歩いた。

 恨んでいるだろうか。今でこそ申し訳ないという気持ちがふつふつと湧いてはくるものの、当時の自分はただ母のあの目を見たくない、の一心だったのだ。

「棗くん」

 男の、ひどくのんびりとした口調で棗は思い出したように再び顔を上げ、申し訳なさそうに軽く会釈をした。

「すみません、そろそろ帰ります」

 言って、膝に置いていた本に視線をやり、棗は息を呑んだ。

 確かに読み始めたときにはびっしりと紙面に並んでいた文章。それがまったくないのだ。文字ひとつとして書かれていない、ただ空白のページから視線を逸らせずにいた。

 どういうことだろう。五十嵐棗、と、自分の名前が書かれた文章は、ページをめくっても、何も書かれていないまっさらなページが続くだけで、一向に出てこなかった。

 だが、考えても考えても、迷路の出口は闇に閉ざされたまま、姿を現す気配はない。仕方なしに開いていた本を閉じると、乾いた音が小さく夕闇に溶けるようにして消えていった。

「その本は面白かったか」

 店主の声とは違う声に、棗は驚く。すっかり忘れていたが、烏が喋るんだった。そう思い出して、男の肩に乗った真っ黒な烏を見た。

「はい……あの」

 ふと棗の中で疑問が浮かんだ。だが、それをそのまま訊いてもいいものかどうか、まごつき投げかけた言葉はとても歯切れの悪いものだった。

 そんな棗の心中を察したかのように、烏は嘴を細かく動かせながら頷いた。

「どうした」

「あの、もし違ったらすみません。……あなたは幽霊ですか?」

 烏に向かってそう訊ねるのが正しいかどうかはわからないが、ふと、夏祭りの日に会った着物を着た女の子を思い出した。直接訊くことはもうできないから、真意の程はわからないが、きっとそれに近い存在なのだろう。現に母の目に少女は映らなかったのだ。見える者と見えない者とがいるのだろう。そうしたら、店主の男が言った『普通はやっくんのこと見えないけど』という言葉が少女と烏のやっくんとが重なったのだ。

「さあ、どうだろうな。だがこの世にいていい存在ではないのは確かだろう」

 烏の声が少し寂しそうに震えた。表情は相変わらず不変で本当に寂しそうなのかどうかは謎だが。

「それにしても、少しは俺の存在を認めた、ということか」

 烏が独り言のように呟くのを聞き、棗は以前にも似たような感覚を味わったことがある、と不思議な気分でいた。

 あの日。

 夏祭りの帰りのときだ。着物を着た女の子は、棗を見て手を振った。けれど見えていないふりをした。視界に入らないように、顔を背けた瞬間に見えた少女の怒りにも寂しさにも似た、なんとも言えない表情を思い出した。花火は終わってしまっても、お祭りはまだまだ続いていて、子供たちのはしゃぎまわる声、大人たちも負けじと笑いあう。棗も必死に楽しいことを脳裏に浮かべ、記憶の中から少女を消そうとやっきになっていた。

 けれども、そう思っていても心の片隅で悪いことをした、という気持ちが消せずに、もやもやと水面に浮かぶ落ち葉のように浮かんだままだった。

 そのときの気持ちに似ている。申し訳なくて、思わず目を逸らしたくなる。そんな気分だ。

「……ぼくは、昔から母が見えないものが見えていました。でも見えたと言えば周りはぼくを不気味そうな目で見るんです。だからいつも見えていないふりをし続けていました。そうすれば、ぼくも周りのみんなと同じなんだって思えたから。みんなと一緒、ということに安心したんです。少なくとも、周りと同じことをしていれば、嫌われることはない。でも――」

 烏のやっくんは、ただじっと棗を見つめていた。途中、言葉を遮ることも、催促することもせず。

「後悔しているんです。たぶん、ぼくは色々見えていたと思うものを、今まで無視してきた。もしかしたら、ぼく以外誰一人として姿が見えなくて寂しかったのかもしれないのに、手を振り返してあげればよかった……」

「棗くんさ、よかったらまたおいでよ。ここはさ、色んな人と出会えるからきっと楽しいよ」

 店主の男が唐突に、笑いながら言った。本棚に背をもたれさせ、すでにうちわは持っておらず、代わりに腕組みをしながら微笑んだ。

 棗の言葉に「何が」とも「どうして」とも言わない。

「ああ、もちろん絶対何か買って欲しい、なんてことじゃなくて、ただ暇なときにさ、古い本だけど本ならいくらでも読んでいいし」

「いいんですか……?」

「もちろん。やっくんも何だか棗くんのこと、気に入ったみたいだしね」

「俺が、じゃなくてあやめがだろう」

「あやめ……さん?」

 棗が店主の男を振り返ると、ばつの悪そうな表情で男はやっくんを見た。

「何で勝手に他人の名前を教えちゃうかな。あ、ごめんね。女みたいな名前だから好きじゃないんだよね。――五十嵐あやめ。同じ五十嵐ってことで、また来てくれると嬉しいよ」



 あやめと烏のやっくんに見送られ、棗は路地に出た。

 もういくらかもしないうちに、闇に閉ざされるだろう。うっすらと残っている橙色の空を見て、なんとなく息を吐いた。

 昼間は頼んでもいないのに汗が噴き出すほど暑かったのに、夕方を過ぎるともうこんなにも涼しい。蝉の鳴き声も聞こえない。なんだか少し寂しいと思う反面、もう秋なんだな、と嬉しくもなる。こうして自分の知らないうちに、時は過ぎ去っていくのだろう。

 棗はふと思い出したかのように立ち止まり、鞄の中から眼鏡ケースを取り出した。真っ黒の飾り気のないケースは、普段使われていないのか、新品同様に綺麗だった。

 もう随分と眼鏡をかけていない。

 視力はお世辞にも良いとは言えないが、コンタクトも眼鏡も、どちらも敢えてしていない。理由は簡単だ。見たくないものを見えないように、わざと視力が悪いままでいたのだ。

 しんと静まり返った道の真ん中で、棗はケースから眼鏡を取り出す。細いフレームの、やはり使い込まれていないだろう、そんな眼鏡だ。

 ゆっくりと、緊張で震える指で眼鏡をかける。かすんで靄がかかったような、曖昧な世界から、いっきに現実が映し出される。もうすでに離れてしまった古本屋も、前方に見える神社の鳥居も、驚くほど鮮やかに見えた。まるで別世界だった。

 棗はふと、鳥居の向こう側に人がいるのを見つけた。

 小さな女の子。赤い着物を着た、女の子。

 一瞬ドキリとしたが、不思議と子供の頃に感じたような恐怖はなかった。

 鳥居の柱の隠れるようにしてしがみつき、顎のラインで切り揃えられた癖のない黒髪は小刻みに震えている。よく見れば、おびえたような表情で棗を見ていた。

 棗は立ち止まったまま、ただ声をかけることもできず、じっと少女を見つめた。以前のように、視線を逸らすことなく、それでいてとても穏やかな気持ちで。

 しばらくして、少女の手が動いた。柱にぎゅっとつかまっていた片手が宙に浮き、躊躇いを見せながら左右にゆっくり揺れる。子供の頃、棗にしたように、今も手を振ってくれているのだ。それが意味するところが何かはわからない。だが、嬉しかった。

 棗は、徐々に夜が近づいてきているのを背で感じながら、しっかりとした笑顔で少女に向かって手を振った。



【完】


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 女の子がすごく可愛い・・・棗君は強いですね。私だったら失神してます。 シリーズものなんですね。続き、楽しみに待ってます!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ