その言葉を待っていた
まだ新入りのメイドを見て、私は言った。
「ねえ、まだそこ終わってないよ?」
そう言うと、新入りはあからさまに嫌そうな顔をして「すみません」と言って、掃除をはじめる。私はゆううつな思いでため息をついた。こういうとき、びしっと怒れない自分が嫌だ。
ここは宮殿、現在では宮廷として使われているので、王侯貴族の方々がたくさん出入りしている。私も一応は貴族出身なのだけど、ここでこうして掃除をして暮らしている。
私はファンティーヌ。年は二十七歳。
まあようするに、行き遅れの年増女だ。
全体的に私の容姿は地味そのもの。
着飾れば見られる姿にはなるものの、金髪なのに茶色みが強すぎていたり、青い瞳なのに色が濃すぎてそう見えなかったり、惜しい要素満載でいたらいつの間にか社交界では壁の花。気づいたら社交の場にいくこと自体が面倒くさくなってしまっていた。
「まあいいけどね」
私は鼻歌を歌いながらほうきを動かす。
実家に残っていても良かったが、売れ残ってしまった娘としては、おばや、時々遊びに来る知り合いの視線が痛い。なんで二十代で行き遅れ認定されなきゃならないのかしら。まだ子どもだって産めるのにと思いながら過ごす苦痛に耐えきれず、私は実家のコネを使い、宮殿の雑用仕事をもらったのだ。
一人はきままで気楽だ。状況が許してくれるのならば、年をとって動けなくなるまでこうして置いてもらうつもりだった。
今日は晴れてて気持ちいいし、休憩時間になったらお庭の薔薇やその他の花木を見ながら、庭師のおじさんと雑談でもしようかしら。
そう思っていると、誰かが歩いてきた。
いま私が掃除している場所は中庭をとりまく回廊だ。私は歩いてきた人物の服装をさっと見て、身分の高い人物だと察し、すぐにわきによける。だが、その人物は立ち去らずに私の前に立った。
ああ、またきたのか。
「ああ良かった見つかって、探してたんだよ」
「何か御用でしょうか?」
他に自分が声をかけられる要素も見つからないので私はそう言った。けれど、顔をあげて目の前の人物を見ると、つい苦々しい思いでなんとか普通の顔を保つのに苦労する。
それは現在ここに滞在している王族のひとり、第二王子のエヴラール殿下だ。
金糸を集めて植え付けたようなサラサラの透明感がある金の髪に、私が欲しかった明るいブルーの瞳をした、ハンサムで明るい、そしてプレイボーイとして名高い青年である。確か年は二十四歳。年の若いメイドたちが一日に一度は話題にしている。
まあ、もういい年になってしまった私には関係ないのだが、どういう訳か、ここに滞在するようになってからというもの、彼は時折声私にをかけて下さるようになったのだ。
「御用も何もないよ、ただ話をしようかなと思って」
「今日は何を?」
「君のこと。もっと教えてよ」
チャーミングな笑顔で言いながら、私からほうきを取り上げようと手を伸ばしてくる。私はほうきの柄をぎゅっと抱き込んで、必死に笑顔を浮かべた。
「も、申し訳ありませんが、今は仕事中ですので」
「いいじゃない、僕がいいって言えば平気だよ」
「いいえ、後でメイド長に怒られたくないんです。他のメイドに白い目で見られたくないんです!」
私は言って、ますますほうきを体に押し付け、後ずさる。
すると、彼の青い目がやや暗い色をおびて翳った。
「うらやましいなあそのほうき、へし折ってやりたい」
「何でですか? どうしたらそういう結論になるんです? これは宮殿の大切な備品ですよ、職人が魂込めた逸品なのに、へし折るだなんてとんでもない」
「そう? じゃあおとなしくそれを適当な場所に置いて、話をしようよ」
だめか。相手は王族、逆らうなんて無理な話だった。私は素直に言うことを聞き、ほうきを手近な茂みに隠すと、エヴラール殿下と向かい合った。
「それでいい。さて、何の話をしようか?」
にっこりと天使、いや悪魔のほほえみを浮かべた殿下は、私の手をとり、庭の方へと歩き出す。私は困惑しつつ、ふと思いたって訊ねた。
「あの、どうして私などにかまわれるんですか? もっと若くて可愛い使用人もおりますし、殿下ならどのような貴族の姫だってよりどりみどりじゃあありませんか」
「そんなことないよ」
「そんなことありますよ。その……失礼なことを申し上げますけれど、殿下には、意中の方などはいらっしゃらないんですか?」
エヴラール殿下は立ち止まった。私、まずいことを聞いちゃったかしら。全身の血液が冷たくなるのを感じる。この口を縫いつけてやりたい。
「なんで、そんなこと聞くの?」
「え、と……私てっきりそういう相談を持ちかけられるのかなと思って。それに、殿下に恋人がおられれば、殿下を慕って涙を流す乙女の数もぐっと減るでしょうし……」
私は混乱して、ますます変なことを口走る。やはり、この口はだめだ。
「ああ、すみませんすみません! 今言ったことはすべて忘れてください!」
私は思わずそう叫んでいた。とにかく恥ずかしい、顔から火が出るとはまさにこのことだ。
「それは、君もそういう乙女のひとりだってこと?」
「は……え?」
だが、エヴラール殿下から返ってきたのは意外な答えだった。
私はどう反応して良いやら固まる。もちろん答えはNOだ。
そもそも、年下の男性とどうこうなど考えたこともない。世間的にも、それはおかしいこととされている。まあ、例外はあるが、一般的にはそうだ。その規範からはずれようなどと、おこがましいことは考えないようにしている。
「だったらごめん、ずっと、君は僕なんか眼中にないと思っていたから」
そう言うなり、殿下の手が伸びてきて、私の腰におさまる。そのまま強く抱きしめられた。乗馬が趣味の殿下の体格はかなりがっしりしており、力も強い。逆らうことなど出来ない。いや、逆らうという考え自体が浮かんでこなかった。
家族を除いて、男性に抱きしめられるなどという経験はない。人生初だ。そのまま凍りついたようにじっとしていると、少しだけ体が離れて、顔が近づいてくる。
きれいな顔。なんてうらやましい……私はぼんやりとそう思う。
やがて、唇が重なった。
頭が真っ白になっていた私は、何が起こったかすらわからない。やわらかく、甘いくちづけ。じらすように、唇をゆっくりと舌でなぞり、少しずつ口を開けさせて、さらに深い口づけをする。
息、息が出来ない。うめいて、彼に強くしがみつく。酸素が足りない、けれど、彼は中々離してくれなかった。頭にもやがかかったように意識が飛びかけたところで、ようやく唇が離れる。
「……っは、何を」
必死で酸素を補給しながら、私は問うた。
「つづきは、ちゃんとしてからだね」
しかし、殿下は訳のわからない答えを返して、満足そうに笑うばかり。
「ま、待って下さい、意味、意味がわからない……です」
「今のでわからなかったの? 僕の意中の人……」
甘いほほえみが目の前いっぱいに広がっている。
そこまで言われれば、さすがの私でもわかった。
けれど、同時に疑問もわく。
どうして? どうして私なの?
目が雄弁に心の中を語ってしまっていたらしい。
彼は、まだ息があがったまま、微かに笑いながら言う。
「以前にね、ここじゃなくて他の宮殿で舞踏会が開かれたときに、僕は君と会ったことがあるんだよ。君は、女性に囲まれていた僕を見て、体調が悪いのに気づいてくれただろう?」
「え、と……そういえば」
私は忘れようとしていた記憶の糸をたぐる。
確かに、美しい女性に囲まれて顔を青くしていた若者がいたことを思い出す。気の毒に思い、声をかけてそこからひっぱりだして、夜気に当ててあげたのだ。
「そのとき、ちょっとお説教されてね。そんなふうじゃ、いつか本命に出会っても本気を理解してもらえないわよ、と言われたんだ。すぐにはわからなかったけど、この年になってようやく理解できた」
エヴラール殿下は、懐かしむように、愛おしい思いを味わうように語る。
私は黙って話を聞く。
頭上を、渡り鳥が爽やかな声を上げながら飛び去っていく音がした。
「それから、ずっと君を探していたのに、どこにもいない。パーティというパーティにはなるべく顔をだしたのにいない。そして、この冬にここに宮廷が移ったら、使用人にまぎれているじゃないか。びっくりしたよまったく……それからというもの、暇を作っては会いにきているというのに、君は何にも気づかないし」
恨みがましい目で言われ、私はうなだれる。
それは悪いことをした。なにしろ、昔の記憶は私にとって苦々しいものばかり。
遠く遠くへ、宇宙の果てまですっ飛ばして、そのまま砕け散って戻って来なければいいとすら思っていたのだ。思い出すそばから、お酒や思考停止という技を使って忘れようと努力まで重ねたのである。そう簡単に思い出すはずがない。
けれど今、ちゃんと思い出した。そのときに、この若者は素適な男性になるだろうな、と思ったことも一緒に思い出す。
ほんのかすかな憧れを抱いたことまでも。
彼の兄である第一王子も女性に人気だが、彼はどこかきびしい、恐れを抱かせる人物だった。だからだろうか、私の視線は吸い寄せられるようにエヴラール殿下に向いてしまっていた。もちろん、王族に恋心など抱いても空しいだけでしかないから、その小さな憧れは胸に秘めるだけで終わり、以来、恋らしい恋もせずここまで来てしまった。
「でも、こうしてやっと会えた。そして、本当の気持ちを言える……。僕は、ずっと君を探していた。君が欲しい、結婚しよう」
そっと、少し節くれだった手が頬を撫でる。体が震えた。甘いしびれが全身を走る。
私は答えた。
「無理です」
エヴラール殿下の顔が悲しげに曇る。そのつらそうな顔に、胸が痛んだ。
「どうして? 僕は君を愛してる、君も僕を好きでいてくれた。君の身分は貴族だ、何も障害はないじゃないか、無理などないよ」
「そもそも、私はまだひとことも殿下を好きとは言ってません」
沈黙。しばらくして、エヴラール殿下の顔色が変わる。
「待ってくれ、でもさっき君は逃げなかったし否定しなかったじゃないか!」
「そうですね。女性が男性に捕まえられた場合、まず逃げられませんし、否定するほど殿下が嫌いだというわけじゃありませんし」
「じゃあ、嫌なのかい?」
苦しげな顔をして、聞いてくる。
私は、きちんと言わなきゃ、と気を引き締めた。
彼のためにも……言わなくてはならないのだ。
「私には、王族の中で暮らすだけの強さがありません。それに、殿下は非常におモテになります。私はきっと、いつか耐えきれなくなると思うんです……ですから、無理なんです。こんな身勝手な私などさっさと忘れて、他の方をお探しになってください」
きっぱりと告げる。
私は気づいていた。逃げもせず、拒みもしなかったのは、ずっと彼を密かに思っていたのだと。自分の思いを箱に閉じ込めてふたをして、なかったことにしていたのだ。
自分が、苦しみたくなかったから。
こんな卑怯で弱い女と結婚させてはいけない。だから、私は言った。痛くてたまらなかったけれど、言わなければと思ったから言った。
が、殿下はすっ、と表情を消し、低い声で唸るように言った。
「嫌だ」
「えっ?」
「嫌だって言ったんだ!」
私は唖然として殿下を見つめた。
「君といられないなら、王族なんかやめてやる。それならいいだろ!」
「ま、待って下さい、待って下さい! 正気ですか?」
「ようするに継承権を捨てればいいんだ。大丈夫、僕はただの官僚としても有能だから!」
それは知っている。
外交手腕に優れたエヴラール殿下のおかげで、何度か戦争を回避しているのだ。その度になんてすごいお方だと一人でお茶を飲みながらクッキーをつまみ、ほくほくしていたのだから。
「だめですよ! 何でこんな女のためにそこまでするんですか!」
「僕の好きな人をこんな扱いするな! いいから手を放してくれ、父上と兄上に宣言してくる」
「あああ! わかりましたよ、結婚すればいいんでしょう? お願いですから辞めて下さいっ!」
思わず私は叫んでいた。
ぴたり、と殿下の動きが止まる。
しまったと思ったときには遅かった。私は、生涯自分の口に後悔しながら生きていかなくてはならないようだ。心の底から、口の軽い自分を呪う。
ゆっくりと振り返った殿下は、真摯な眼差しをしていた。
「本当? じゃあ結婚してくれるんだ?」
「はい。そこまで言われたらもう断れないじゃありませんか……後悔しても知りませんよ? 後でこんなダメ女と結婚した自分を呪っても取り返しつきませんからね。辞めておくなら今ですよ?」
「そんなこと言う訳ないだろう! 嬉しいよ、今日は最高の日だ!」
殿下は明るい笑顔で私を抱き上げ、そのままぐるぐると回した。
私は目が回ってしまう。殿下も同じく目を回したらしく、そのままふたりそろって芝生の上に倒れ込む。殿下の上に乗った形となった私は、彼の両手が妙な動きをしているのに気づいて、小さく悲鳴をあげた。
「ちょっ、何してるんです?」
「ずっと触ってみたいなと思ってたんだ。ファンってさ、結構いい身体してるよね、結婚したら楽しみだなあって実は考えてた」
邪までありながら、明るく屈託のない笑み。もちろん、その行為自体についての知識はある。ふと、エヴラール殿下の年齢に思いをはせ、思う。初夜は、私の身体が持たないかもしれないと。
「知っていると思いますけど、こういう体つきは清楚じゃないから、美しくないって言われているんですよ」
呆れたように言う私。それでも、自分の身体が彼にそういう影響を与えられるのだと思うと、少しわくわくした。そっ、と上体だけ起こして、憧れの人の口もとを見る。
触れたい、と思った。
「そんなことないのに」
「そうだといいんですけど……私、努力しますね。私なんかを選んでしまったせいで、殿下の目が曇っていたとか言われるのは、嫌ですから」
「私なんかとか言わないでよ、僕はさっきからずっと君がいいって言ってるのにさ」
言って彼はちょっと怒ったような顔をする。
ずるいことに、どんな顔も魅力的だ。
私は、そっと顔を近づける。
唇が重なる。
先ほどの強引なものと違う、静かな口づけ。
少しして、すぐに離れると、殿下は嬉しそうに笑った。
私は口を開いた。
ちゃんと、心を言葉に変えて伝えなければ。
「先ほどはうそをついて申し訳ありません。私も、殿下が好きです……ずっと、愛していました」
「……その言葉を待ってたよ!」
殿下はそう答えて、私を引き寄せると、強く抱きしめた。
それは、優しく穏やかな初夏の午後の話。
庭園で転がっていたふたりの笑い声を聞いたものたちが、驚いて探しにいったものの、そこにはすでに誰もおらず、小さな茂みからホウキの柄が飛び出ている光景を見ただけだった。
それから三カ月ののちに、第二王子エヴラールと、子爵令嬢ファンティーヌの婚礼が、厳かに執り行われ、しばらくのあいだ、国は幸せな雰囲気に包まれることとなったのだった。
~終~