第1話「毒と薬と、甘い紅茶」
教室の空気は、いつも少しだけ息苦しい。
三十人の人間が吐き出す二酸化炭素と、見栄、嫉妬、そして微かな好意。それらが複雑に混ざり合った空間は、湿度が高くてどうも肌に合わなかった。
私は窓際の一番後ろ、いわゆる「壁の花」の特等席で、今日もひっそりと息を潜めている。机の下でこっそりと、水筒に入れた自家製のペパーミントティーを一口飲んだ。すうっとした香りが鼻腔を抜け、少しだけ頭の中がクリアになる。
「ねえ桐谷くん、これ、昨日焼いたクッキーなんだけど、よかったら食べて!」
「わあ、すごい。お店のやつみたいだね。ありがとう、すごく嬉しいよ」
教室の中心では、今日も華やかな生態系が展開されている。
桐谷 湊。
さらさらとした色素の薄い髪に、甘く整った顔立ち。誰にでも分け隔てなく優しい彼は、このカーストという名のガラスケースの中で、間違いなく一番美しく咲く花だった。
(……今日も大変そう)
彼を取り巻く熱気から目を逸らし、私は愛読書の『世界の薬草図鑑』に視線を落とす。人間関係の機微を読むより、葉脈の形を覚える方がずっと生産的だ。植物は嘘をつかないし、裏切らないから。
「あ、そうだ。桐谷くん、最近お疲れみたいだったから、特別なハーブティー淹れてきたの。リラックス効果があるんだって。今、飲んでみて?」
甲高い声が響き、ふわりと教室に甘い香りが漂った。
クラスでも目立つグループにいる女子生徒が、ピンク色の可愛らしい保温ボトルを桐谷くんに差し出している。
桐谷くんは「え、僕のために? 優しいね」と完璧な微笑みを浮かべ、小さな紙コップに注がれた赤みを帯びたお茶を受け取った。
その瞬間、私の鼻先を、甘いフルーツの香りに混じって、特有の青臭い匂いが掠めた。
(ん……?)
図鑑のページをめくる手が止まる。
ハイビスカスやローズヒップの酸酸っぱい香り。そこまではいい。でも、その奥底に潜む、枯草のような独特の匂い。
(キャンドルブッシュ……いや、この匂いの強さは、センナの葉?)
「ダイエット茶」や「デトックスティー」として市販されているものによく含まれる成分。確かに便通は良くなるが、健康な人間が、しかも疲労している時に濃く煮出したものを飲めば、待っているのは激しい腹痛と下痢だ。
彼女の表情をちらりと観察する。頬を染め、上目遣いで彼を見つめているが、その唇の端はほんの少しだけ、意地悪く歪んでいた。
(なるほど。好意の裏返し、あるいは独占欲)
彼を体調不良にさせて、自分が看病して気を引くつもりか。それとも、単なる憂さ晴らしか。
どちらにせよ、あんなに濃いものを飲んだら、彼は午後の体育祭の結団式で、全校生徒の前で大惨事を引き起こすことになる。
「じゃあ、いただきます」
桐谷くんが紙コップに唇を近づけた。
見なかったことにしよう。波風を立てるのは私の主義じゃない。
そう思って目を伏せたのに、祖母の「知識は人を救うために使いなさい」という声が脳裏をよぎってしまった。
「……っ、やめた方がいい」
静かな教室に、私の掠れた声が落ちた。
しまった、と思った時はもう遅い。三十人の視線が、一斉に教室の隅の「地味な女」へと突き刺さる。
「え、紬さん? 今、何か……」
桐谷くんが目を丸くして私を見た。
心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。でも、言ってしまったものは仕方がない。私は重い口を開き、できるだけ感情を交えずに事実だけを告げた。
「……そのお茶、おそらくセンナの葉が多量にブレンドされてる。腸を刺激する成分が強いから、今飲んだら、午後の授業は確実に……その、トイレから出られなくなると思う」
しんと、教室が静まり返った。
ハーブティーを持ってきた女子生徒の顔が、みるみるうちに真っ赤になり、そして青ざめていく。
「な、なに言ってるの!? これはただの美容茶で……!」
「美容茶として市販されてるものには、よく入ってるよ。でも、成分表示を見てみて。キャンドルブッシュって書いてない? それ、お腹が弱い人や疲れてる人が飲むと、立派な『毒』になるから」
淡々と告げると、彼女は「もういい!」と叫んでボトルをひったくり、教室から飛び出していってしまった。
(ああ……やっちゃった)
最悪だ。目立ちたくなかったのに。
いたたまれなくなって図鑑で顔を隠そうとした私の机の前に、ふわりと甘い香りが近づいてきた。
顔を上げると、そこには桐谷くんが立っていた。
いつもの、万人に向けられたふんわりとした笑顔ではない。瞳の奥に、獲物を見つけた肉食獣のような、冷たくて鋭い光を宿して。
「へえ」
彼は私の机に両手をつき、顔を近づけて、耳元でしか聞こえない低い声で囁いた。
「君、大人しそうな顔して、すごくよく『見てる』んだね」
「……たまたま、匂いでわかっただけ」
「匂いだけで? すごいな。ねえ、紬さんだっけ」
美しい顔が、意地悪く歪む。
「僕、ああいうの断るの下手なんだよね。明日から、僕の『毒見役』になってくれない?」
植物図鑑の間に挟まれていた平穏な私の高校生活は、どうやら今日、この甘い毒牙によって終わりを告げたらしい。




