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「用意、初め」
西山先生の合図とともに、後半女子たちは走り出す。ただ、香奈さんは前の者の踵を踏みそうになり、急遽進行方向を変えたが、脚が絡まって初っ端からこけた。
何事もなかったように走り出す。普通、こけてしまったらやる気など、零れ落ちてしまうだろう。ただ、彼女は砂のついた頬をぬぐい、前だけ見て走った。
決して速くないが一生懸命に走っているとわかる。
適当に走っている女子を追い越し、最後の一周に入った。
息は乱れ、手足はもみくちゃになり、表情は崩れている。おそらく、彼女も相当な負けず嫌いな性格なのだろう。
そんな姿に共感し、自然に「香奈さん、ファイト!」と声が出ていた。
部活の掛け声ではないのだから、もっと別の言い方があったと思うけれど、あまりに自然過ぎて自分でも驚いている。
他の男子も彼女を応援していたが、誰よりも大きな声だった。
香奈さんは無事にゴールし、よろよろとおぼつかない足取りで歩いた。
僕は咄嗟に羽織っていた長袖を脱ぎ、駅伝選手を迎えるように彼女の肩にかけ、コンクリートに座らせた。
「き、きっつぅー、やっぱり、走るのなんか全然楽しくないっ」
「お疲れ様。持久走はほんと大変できついよね。でも、香奈さんは全力でやり切った。凄いよ、カッコいい、スーパースター級!」
「ちょ、褒めすぎ……。なんか、逆にウソっぽいからやめてっ」
呼吸を荒げながら突っ込みを入れてくる。なんなら、肩パンまでしてきた。
表情は疲れ切っているのに、ほのかな達成感に包まれ、笑顔が絶えない。やはり、笑顔がよく似合う人だ。
そしてタイムの予想勝負の結果、僕は見事に外し、クラスの者の中で香奈さんだけがピタリ賞。
つまり、ジュースを二本ゲットして、どや顔を決め込んでくる。でも、僕が買ってきた一本のジュースを片手に差し出してきた。
「神村くんも頑張ったから、あげる」
「……ありがとう、僕が買ったジュースだけど」
「そういうことは言わないのー」
冷たいジュースの底を頬に押し当ててくる。何だかんだ、二人で乾杯し、長距離走後の乾いた体に糖分を流し込み、おっさんのようなだみ声を出してストレスを発散した。
この流れだと、体力テストの勝負でも負けるのではないかと思うようになり、短距離走とハンドボール投げの練習がしたくなる。
来週まで体育がないので、その間に練習しておこう。
体育が終わり、午後の授業を受けた後、掃除。放課後がやってくると香奈さんはまた誰かに呼ばれたらしく、機嫌が悪そうに教室に戻ってくる。
「なに、男は女の顔と体が良ければだれにでも発情するわけ?」
「そ、そういう男もいると思うよ。全員がそうとは限らないけど」
「……神村くんも、私よりかわいくて胸が大きな女が現れたら、そっちが好きになっちゃう?」
突然の質問に言葉が喉でつっかえる。あほくさい質問だけれど、彼女の表情は非常に真剣だった。だから、僕も真面に答えなければと思う。
「香奈さんよりかわいいわけじゃない女子を好きな男子は絶対にいるよ。A五ランクの和牛は美味しいけど、スーパーの牛肉が好きな者もいるのと同じ。好きな人がコロコロ変わるのは、本当に恋した人がない者だと思う……って、僕はなにを熱く……」
後頭部を掻き、乾いた声が出る。好きな人の話題は男女問わず、熱くなってしまうのかな。
「何となくわかる気がする。アイドルが好きなのと、恋で好きなのは違うってことだよね」
「うん……、まあ、香奈さんはアイドル級に可愛いから多くの男に好かれちゃうんだろうなー」
シャープペンを動かし、問題を解きながらだったからか、はたまた母の天然が遺伝しているのかわからないが、僕の口からサラリと発せられた言葉に、香奈さんは言葉を失った。
呼吸音すら止まったような気がする。気になり、隣を見ると口と目をぽっかりと開け、耳や頬、首まで赤らめた彼女の姿がそこにあった。
なにをそんなに驚いているのかわからない。
「そ、そういうところがずるいよ、神村くん……」
「え? な、なにが?」
正々堂々と戦うのが男の中の男。ずるいと言われると、心に引っかかる。でも、香奈さんが明後日の方向に視線を向け、無視してくるので彼女の言葉の意味は分からずじまいだった。
☆☆☆☆
高校生活が始まって三週間ほどが過ぎたころ、体力テストが全て終了した。
短距離走とハンドボール投げの結果も踏まえ、僕は香奈さん&クラスの女子の記録と比べる。人と比べるのはあまりいいことではないが、比べることで見えてくる状況もある。
「握力四五キログラム、上体起こし四八回、長座体前屈六〇センチメートル、反復横跳び七〇回、五〇メートル走六.五秒、立ち幅跳び二四〇センチメートル。ハンドボール投げ三五メートル。うっそだぁっ、絶対盛ってるでしょ!」
僕の記録を見た香奈さんは信じられないとでも言わんばかりに難癖つけてきた。彼女の結果が悲惨過ぎたからか、はたまたただたんに悔しいからか。僕の結果はどれも女子に負けておらず、何とか男としての威厳を守れた。
「なんで、神村くんはこんなに可愛いのに、こんなアスリートみたいな結果、おかしいっしょ」
「うんうん、結果から一.五倍くらいしているに違いない……」
「もしかしたら、今まで神村くんは別の人間に競技させていたのかも」
女子たちが僕の見た目と記録のギャップにこの結果が本当なのかと異議を申し立ててくる。
そこまでしてジュースが欲しいのか、はたまた僕に連絡先を教えたくないのか。
「根拠を見せなさい、根拠を。そのほっそい体で、こんな記録が出るわけないじゃない!」
香奈さんは着やせする僕に視線を向け、自分の記録が一つも勝てていない状況に腹を立てているようだった。非常に理不尽極まりない。
根拠といわれても、彼女たちは僕が本気でやっていた場面を見ているはずなので、それ以上の根拠を提示しようにも難しい。
グーグルの入社試験で出た、あなたがロボットではない理由を説明してくださいといわれているような状況だった。
「じゃあ、ここで腹筋をやってみようか……」
カッターシャツを脱ぎ、半そで体操服を着ようと思った。またいつの間にかシャツを脱いでいた。この癖、どうにかならないだろうか。
僕はシャツをすぐに手に取り、胸もとまで持ち上げる。踵を返し、背中を見せた。
男が上裸を見られたくらいで何を気にしているんだと自問自答する。それでも恥ずかしいもんは恥ずかしい。




