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さっきまで両手を握り合わせ雨乞している巫女状態だった香奈さんの目に、ちょっと光が戻る。
どうやら目的のない努力が苦手らしい。ちょっとでもゲーム性が入ると、スイッチが入るタイプだ。
ただ、勝負の話が、なぜかクラス全体に広まってしまい……。
「神村くんと香奈ちゃんのタイムを予想して、ピタリ賞にはジュースが贈呈されます!」
なぜかクラスのイベントになっていた。しかも何分何秒まで当てないとダメという、超シビアなやつ。
いや、そんな正確に当てるの無理でしょと思ったけど、皆は持久走が嫌すぎて、ちょっとでも楽しみを作りたかったらしい。
――香奈さんは運動神経が悪かったから走るのも苦手なはずだ。女子の千メートルの平均は四分三〇秒から五分三〇秒。なら、平均より少し遅くして、五分四五秒くらいにしようかな。
もう訂正できないように、ボールペンで「五分四十五秒」と書いておく。いざグラウンドに集合。
準備運動でトラックを普通に走らされ、皆の不満が蓄積する。
僕は走るのが嫌いではない……といったら語弊があるが、体力作りのために今でも走っているから苦ではない。
走る時に気持ちはいらないのだ。淡々と脚を動かし、体の動きに意識を向ける。ただ走る。そうしていれば、一五〇〇メートルは終わっている。
桜の花はすでに散りかけており、トラックにピンク色の花弁が散らばり、地面が満開になっていた。
ほんのりと甘い香りが柔らかい風に吹かれ、抜けていく。広いグラウンドで澄み渡る青空を見上げると、特別な解放感があった。
持久走は四回に分けて行われる。前半女子、前半男子、後半女子、後半男子の順。香奈さんは後半、僕は前半だった。僕の方が先に走ることになる。前半の女子が走り終わり、掲揚柱が立っているコンクリートの部分に座り込む者が多数。
「前半男子、スタートラインに移動しろー」
西山先生がストップウォッチを持ち、声をかけてきた。男子たちが重い腰を持ち上げ「だりー」や「うげー」など、口にすると飲み会の帰りのサラリーマンに見えてくる。
「よし、ここは香奈さんに勝つチャンス。彼女の予想を超えるほど、早く走ってやる……」
僕に遅く走るという選択肢はない。おそらく、香奈さんもその点は理解している。持久走は今月でおそらく二回から三回ほど行われるため、最初に全力を出す者はあまりいない。
だからこそ、香奈さんの裏をかくため、ここで全力を出そう。後の持久走にひよっているなど男らしくない。
頬や肩、胸、腹、尻、脚など叩く。まあ、部活の試合で気合を入れるためのルーティンみたいなものだ。
西山先生の「よーい、初めっ」という声と共に僕たち前半男子は走り出す。
一周四〇〇メートルのトラックを四周近く走る。陸上部だと、四分とかで走る。一周一分ペース。そこまでの化け物はいなかったけど、女子が参加する体育は体力テスト以外ないため、ここぞとばかりにいい印象を見せようと頑張る者が多かった。
まあ、ほとんど二週目で失速していくけれど。
僕は体重が比較的軽いおかげか、膝の負担が少なく軽やかなステップでトラックを走る。姿勢と呼吸を意識。途中でバテないよう、最後に本気で走れるくらいの速度を保つ。
固まっていた集団も、時間が経つにつれて解れていき、個人の勝負となる。
長距離走は自分との戦いだ。気持ちで負けてしまえば待っているのは休んでしまおうとする弱い自分。人一倍負けず嫌いな僕は自分にも負けたくなかった。
四周目に入り、残り三〇〇メートル。女子たちが休んでいる近くがゴールになっており、多少なりとも男子を応援していた。ちょっとというか、大分青春っぽい雰囲気に包まれている。
残り一〇〇メートル。ここからが勝負だ。脚に溜めていた力を解放し、ほぼ全力ダッシュ。足が自転車の車輪みたいに素早く回る。
同じクラスの女子たちが僕のタイムを予想しているからか、皆、僕の名前を呼びながら応援してくれた。
部活動の大会でも、女子にここまで応援された覚えがない。
「優くんっ、頑張れっ!」
香奈さんが座ってではなく、立ち上がり、名前を呼びながら叫んでいた。スマートではなく、結構本気で叫んでいる。
手に力が入り、胸の奥から熱い何かが溢れ出しそうになった。
もっと速く走れる。そう思った。だが、力み過ぎたのか、いきなり脚を早く動かしすぎたのか、大きく縺れる。
そのまま速度が乗っており、前かがみに飛んでいた。背後から突き飛ばされたような状況。
――やばい、このままじゃ顔面から落ちる。
一瞬、女子たちの声が止まり、悲痛な呼吸も聞こえた。音が止まったように感じ、何なら時まで緩やかに流れている。
思考と体の動きが追い付くわけもなく、地面に衝突……しなかった。
僕の体に染みついた受け身が反射的に発動。前方回転受け身(前に飛びながら前回り受け身すること)で、地面に衝突せず、むしろ体勢を立て直し、そのまま突っ走ってゴールした。
「はぁ、はぁ、はぁ……、あ、危なかった。死ぬかと思った」
自分でも反射的過ぎて何が起こったのかわかっていなかった。でも右手についた砂が受け身を取った事実を実感させる。
「タイム、四分三〇秒。神村、怪我はないか?」
「だ、大丈夫です……」
呼吸しすぎて肺が痛い。軽く歩き、体育館横に取り付けられた蛇口をひねり、乾ききった口の中を潤す。
走り切ったという安堵より、女子たちの前で盛大にずっこけなくてよかったという気持ちが一番大きい。僕が走り終えた後も、次々に男子たちがゴールしていく。
「神村くん、さっき、わざとこけようとした?」
香奈さんが腕を組み、休憩所に戻ってきた僕を睨みながら訊いてくる。
「わざとこけようとするわけないでしょ。本気で転びかけたよ」
「ま、勝負に卑怯な手を使うような男じゃないことはわかっているけど、私のせいでこけそうになったなら、ごめん。謝っとく」
「いや……、あの時は香奈さんの応援でもっと力が出て、思ってもいない方向に力が向いてしまっただけだから、香奈さんは何も悪くないよ。むしろ、応援してくれてありがとう」
「そう、ならよかった」
また、ぷいっと視線を反らし、背中を向けてくる。褒められるのに慣れていないのかも。彼女の新しい所を発見するたび、なぜか口角が上がってしまう。
「こけないように気を付けてね」
「そんなドジな真似するわけないでしょ」
前半男子が全員走り終わり、後半女子がスタートラインに立った。余裕そうな表情の彼女は軽く跳ねて体を解す。胸が上下に揺れ、目のやり場に困った。




