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夏の短編

作者: 写乱

「夏は蒸発するんだよ」


 青い空の向こう側に目をこらすようにして久美子先生が言ったとき、そういう比喩もあるかもな、とぼくは思った。

 夏が去っていく、夏が遠くなる。

 きらめいていた季節が渡り鳥のようにどこかへと移り住み、ここからはいなくなる。そんなたとえはよく聞く。それに対して、先生の感覚は少し違った。


「夏は蒸発したら、どこにいくの?」

「夏は高い空に昇ってしばらく降りてこないんだよ。酸素みたいに、夏素なつそとして存在はしてるんだけどね。夏素のない状態が冬。冬がやって来るんじゃなくて、夏素が蒸発して夏じゃなくなっただけなの」

「……んー。ちょっとだけ分かるかな」


 あんなに散々照りつけていた陽射しが柔らかくなり、空気中から夏が抜けていくのは、夏素が空に昇っていくから、らしかった。


 そして、ぼくらの夏も終わろうとしていた。久美子先生は急病の担任に代わって一学期の途中からやって来た臨時の先生で、大学を出て二年目。あくまで臨時なので、担任が戻ってくる九月のタイミングでさよならなんだ。



 久美子先生こと白石久美子先生がぼくらのクラス二年四組にやってきたのは、五月の連休が明けて、じっとりとした梅雨の湿気が肌にまとわりつき始めた頃。担任が持病の腰痛を悪化させて長期入院することになったための、臨時の先生だった。

 最初のホームルームで、先生は黒板に少し右上がりの丁寧な字で、自分の名前を書いた。


「白石久美子です。担当は数学。田中先生が戻られるまでの短い間ですが、よろしくお願いします」

 声は思ったよりも少し低く、落ち着いていた。長く艶やかな黒髪を、色白の首元でひとつに束ねている。背丈は、身長一七〇センチのぼくより十センチか十五センチ低いくらい。

 久美子先生は教壇からぼくら三十数人の生徒を真っ直ぐに見渡した。その瞳はどこか遠くを見ているようで、それでいて一人ひとりの心の奥まで見透かしているようで、会った瞬間から不思議な感覚がしたのを今でも覚えている。


 ぼく宮沢涼介は、この進学校に特待生として入学した。中学の頃は勉強ができた。というより、とにかく勉強しなければならなかったのだ。母子家庭で、母は朝から晩までパートを掛け持ちしてぼくを育ててくれた。だから、学費のかからない特待生になることが、ぼくにとって絶対の使命だった。

 けれど、高校に入って一年が過ぎた頃から、何かがぷつりと切れてしまった。ひたすら暗記し、問題を解き、点数を競うだけの毎日に、生きる意味を見出せなくなった。複雑なパズルを解くように面白かった数式が、あるときからただの無機質な記号の羅列にしか見えなくなった。当然のように、成績はジェットコースターみたいに急降下していった。


 久美子先生の数学の授業は、そんなぼくにとって、久しぶりに光が差すような時間だった。先生の授業は魔法みたいだ。難解な数式が、先生の口から紡がれる言葉と、チョークが黒板を滑る音に乗って、すっと頭の中に流れ込んでくる。


「このsinとcosっていうのはね、本当はすごく仲良しなんだよ。円っていう一つの家で、いつもお互いの位置を確認しながら暮らしてるの。だから、片方が分かれば、もう片方の居場所もちゃんと分かる。sin^2θ + cos^2θ = 1っていうのは、二人がいつもお家にいますよ、っていう約束事みたいなもの」

 そんな突飛なたとえに、クラスの何人かがくすくす笑った。でもぼくはその説明で、三角関数の関係性がすとんと腑に落ちた。久美子先生は、数学という無機質な世界に、命と物語を吹き込む魔法使いのようだった。


 だからぼくはよく授業の後で、そんな魔法使いの元へと質問に行った。最初は本当に分からなかったから。でもいつからか、それは先生と少しでも長く話すための、口実になっていた。


「先生、ここの問題なんですけど」

「宮沢くん。うん、どこかな?」

 彼女はぼくのノートを覗き込むとき、ふわりと甘い、シャンプーの香りをさせた。その香りを吸い込むたびに、心臓が大きく跳ねるのを感じる。小さな身体、白い肌、長いまつげに縁取られた優しい瞳。そのすべてが、ぼくの心を捉えて離さなかった。


 先生もまた、ぼくの質問にいつも丁寧に答えてくれたし、時折、数学とは関係のない話もした。

「宮沢くんは、何か部活はやってるの?」

「いえ、何も。家に帰ったらすぐバイトなので」

「そっか。偉いね」

 久美子先生はそう言って、なぜか少しだけ寂しそうな顔をした。その表情がぼくの胸に焼き付いた。

 ぼくらはお互いに、何かを感じていたのかもしれない。言葉にはしない、できない、淡い好意。それは、放課後の誰もいない教室で、西陽に照らされた黒板で輝くチョークの粉のように、静かで儚い思いだった。


 そして、運命の一学期期末テストがやってくる。

 ぼくは久美子先生に良いところを見せたい一心で、いつもよりは勉強した。しかし、一年以上のブランクは、そう簡単には埋まらなかった。数学の試験用紙を前にしたとき、頭の中が真っ白になった。分かるはずの問題が解けない。焦れば焦るほど思考は空回りし、時間だけが過ぎていく。

 結果は、惨憺たるものだった。三十四点。もちろん赤点だ。

 テストが返却された日の放課後、ぼくは進路指導室に呼び出された。学年主任の厳しい声が、ぼくの存在価値そのものを否定するように響く。


「宮沢、分かってるな。特待生の資格はお前が思っているほど軽いものじゃない。次の夏休み明けの実力考査、そこで結果を出せなければ、特待生資格は剥奪になる。夏休みの間で実力を取り戻せ」

 特待生でなくなれば、この学校にはいられない。それは、ストレートに退学を意味した。母の悲しむ顔が目に浮かび、目の前が暗くなる。


 重い足取りで教室に戻ると、窓の外はもう茜色に染まっていた。誰もいない教室で自分の席に座ると、ただぼんやりと空を眺める。今の自分にはどうしようもなく高い壁だった。


「宮沢くん?」

 不意に、背後から声をかけられる。振り返ると、久美子先生が心配そうな顔で立っていた。

「……先生」

「学年主任の先生と、話してたの?」

 ぼくは黙ったまま、こくりと頷いた。彼女は何も聞かず、ぼくの隣の席に静かに腰を下ろす。薄暗くなりかけた教室に沈黙が流れた。窓から吹き込む生ぬるい風が、先生の長い髪を揺らしていく。


「夏休み、宮沢くんがよかったら、わたしが補習しよっか?」

 思いがけない言葉だった。顔を上げると、久美子先生が真っ直ぐにぼくを見ていた。その瞳の奥に、先生としての責任感だけではない、何か温かいものが宿っているように感じられる。


「でも、先生。夏休みは……」

「大丈夫。時間は作れるから」

 先生はそう言って小さく微笑んだ。ぼくはその笑顔に救われた気がした。暗闇の中に差し込んだ一筋の光。この夏、ぼくはこの光だけを頼りに生きていくのだと、そう思った。

 ぼくと久美子先生の二人だけの夏が、こうして始まったのだ。



 七月の終わり、夏休みが始まって数日後の月曜日。ぼくは久美子先生に指定された学校の図書準備室のドアを、緊張しながらノックした。普段は生徒が立ち入ることのない、古い本の匂いが染みついた場所。

「はい、どうぞ」

 中から、久美子先生の声がする。ドアを開けると、午後の強い日差しが差し込む部屋で、先生は机に向かって何か作業をしていた。私服姿の先生がいつもよりずっと大人びて見え、どきっとする。淡い水色のブラウスと、白いロングスカート。


「こんにちは」

「こんにちは、宮沢くん。よく来たね。暑かったでしょ」

 先生は立ち上がって、小さな冷蔵庫から麦茶の入ったペットボトルを取り出してくれた。差し出されたそれを受け取るとき、指先が微かに触れた。それだけで、心臓が大きく跳ねる。

「ありがとうございます」

 こうして、ぼくらの補習が始まった。場所はこの図書準備室だったり、冷房の効いた市立図書館の学習スペースだったりした。週に三回、午後の一時から三時間。それはぼくにとって、この夏で最も大切な時間になった。



 最初のうちは、お互いにどこかぎこちなかった。学校という鎧を脱いだぼくらは、ただの高校二年生の男の子と二十四歳の女性でしかなく、その間に横たわる距離感をどう測ればいいのか分からなかった。

 けれど数学の問題が、次第にぼくらの間の潤滑油になってくれた。

「ここの二次関数、頂点の座標がずれてるかな。平方完成、もう一度ゆっくりやってみようか」

 久美子先生はぼくの隣に座り、ノートを覗き込んだ。質問をするたびに、先生の身体がすぐ側に寄る。ふわりと香るシャンプーの匂い。そのたびに、ぼくは数式から意識を逸らさないようにするのに必死だった。


 ある日の市立図書館でのこと。連日の寝不足と目の前の難問に、ぼくの集中力は限界に達していた。かくんと意識が途切れる。はっと気付くと、先生がぼくの顔を覗き込みながら、くすくすと笑っていた。

「疲れちゃった?」

「……すみません」

「ううん。少し休憩しようか」

 久美子先生はそう言うと、静かに立ち上がって、自動販売機で冷たい缶コーヒーを二つ買ってきた。

「はい」

「ありがとうございます」

 冷たい缶の感触が、火照った頬に心地よかった。図書館の窓から、入道雲が湧き上がる真夏の空が見える。じりじりと地面を焼く太陽。生命力の塊のような、濃密な夏の空気。


「先生は、どうして数学の先生になろうと思ったんですか?」

 ぼくは、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。

「んー、なんだろう。昔から、パズルみたいで好きだったのかも。世界が、すごく綺麗な法則でできてるって思わせてくれるから。答えが一つしかないっていうのも、潔くて好き。迷わなくていいから」

 久美子先生はそう言って、遠い目をする。その目は夏雲の遥か向こう、空際の果てを見ていた。

「迷わなくていい、ですか」

「うん。人生は、答えが一つじゃないことばかりだからね」

 その横顔が少しだけ寂しそうに見えた。ぼくは、先生の人生について何も知らない。けれど、なぜがその横顔を守ってあげたいと、心から思った。



 八月に入り、補習も中盤に差し掛かった頃。その日は、朝から空がぐずついていた。図書準備室での補習を終えて、昇降口を出た途端、バケツをひっくり返したような夕立がぼくらを襲う。

「わっ!」

 ぼくらは慌てて、近くの軒下に駆け込んだ。叩きつけるような雨音で、お互いの声もよく聞こえない。アスファルトがあっという間に黒く濡れ、せるような雨の匂いがむわりと立ち上る。

「すごい雨だね」

 久美子先生が空を見上げながらぽつりと言う。雨に濡れた先生の黒髪が首筋に張り付いて、妙に色っぽく見えた。ぼくは思わず目を逸らしてしまう。

 雨の止む気配は一向になかった。ぼくと先生の間に気まずい沈黙が流れる。


「……そうだ。アイス、食べない?」

 先生が、唐突に言った。

「え?」

「そこのコンビニで、買ってくる。宮沢くん、何がいい?」

「あ、じゃあ、ぼくが買ってきます」

「ううん、いいの。これは、いつも頑張ってるご褒美」

 そう言うと、先生は鞄をぼくに預け、雨の中に飛び出していった。ずぶ濡れになってコンビニに入っていく後ろ姿を見ながら、ぼくは預かった鞄をぎゅっと抱きしめた。まだ先生の温もりが残っている気がする。

 数分後、久美子先生はソーダ味のアイスバーを二本持って、びしょ濡れで戻ってきた。

「はい、お待たせ」

「先生、風邪ひきますよ」

「大丈夫だよ。宮沢くんが看病してくれるからね」

 そう言って悪戯っぽく笑う顔は、先生というより同い年の女の子のように感じる。

 二人で並んで、軒下でアイスを食べた。しゃりっという涼やかな音が、雨音に混じる。ソーダの青が、灰色の世界の中でやけに鮮やかに見えた。


「先生は、どうして臨時でこの学校に?」

 雨音に紛れて、ぼくは少し踏み込んだ質問をした。

「ああ……うん。知り合いの先生に、頼まれてね。本当は、秋から別の学校で働くことが決まってたんだけど、少しだけ時間が空いたから」

「そうなんですか」


 秋から、別の学校へ。その言葉が、ぼくの胸に小さな棘のように刺さった。分かっていたことだ。先生は、夏が終わればここからいなくなってしまう。その事実が、急に重くのしかかってきた。


 アイスを食べ終える頃、嘘のようにぴたっと雨が上がった。西の空が二つに割れて、神々しいほどの光が差し込んでいる。濡れた地面がきらきらと輝いていた。

「あっ!虹」

 先生が、空を指さした。見上げると、西の空をまたぐようにして、大きな虹が架かっている。


「きれい……」

 二人でしばらく黙って、輝くその虹を眺める。この時間が、永遠に続けばいいのに。そう願わずにはいられなかった。でも、虹がやがて消えてしまうように、ぼくらの夏も、いつか必ず終わりを迎える。



 補習の帰り道、蝉時雨が降り注ぐ中を二人で並んで歩くのが、いつしか習慣になっていた。二人の長く伸びた影が、アスファルトの上で寄り添っては離れる。

 ぼくの数学の成績は、正直言ってそれほど大きくは伸びていなかった。先生の教え方は驚くほど分かりやすいのに、ぼくの頭がどうしても数式を受け付けようとしない。焦りだけが募っていく。


「ごめんなさい、先生。おれ、やっぱりダメかもしれないです」

 ある日の帰り道、ぼくは弱音を吐いてしまった。

「そんなことないよ」

 久美子先生は、そんなぼくにきっぱりと言う。

「宮沢くんは、ちゃんと前に進んでる。一歩ずつだけど、確実に。わたしには分かるよ」

 その声には、不思議な説得力があった。先生がそう言うのなら、そうなのかもしれない。そう思えた。


「それにね」と、先生は続ける。「数学なんて、できなくたって生きていけるんだから」

「え?」

「もちろん、テストは大事だよ。宮沢くんにとっては、特にね。でも、それだけが全てじゃない。もし、もし万が一、ダメだったとしても、それで宮沢くんの価値がなくなるわけじゃ、絶対にないから。それだけは、忘れないで」


 久美子先生は、ぼくの目を真っ直ぐに見て真剣な顔で言う。その言葉は数学の解法よりもずっと深く、ぼくの心に染み渡った。

 この人は、ぼくの成績のことだけじゃなく、ぼく自身のことを見てくれている。そう思うと、胸が熱くなる。

 この夏が、先生と一緒に過ごすこの夏が、ぼくにとってどれほどかけがえのないものになっているか。蝉時雨が、まるでぼくの心臓の音のように、激しく鳴り響いている。この瞬間確かに、ぼくらの周りには濃密な夏素なつそが満ち溢れていた。



 八月最後の日曜日。

 それはぼくらの夏休みの補習の、最後の日だった。

「明日からは、わたしも新学期の準備があるから。今日で、いったんおしまい」

 最後の問題を解き終えたぼくに、先生は少し寂しそうにそう告げた。

「……はい。今まで、本当にありがとうございました」

 頭を下げながら、これでもう本当に終わりなのだと、胸が締め付けられるのを感じる。


「ねえ、宮沢くん」

 久美子先生は、何かを決心したように顔を上げた。

「最後に、これからどこか行かない?海とか」

 その誘いはあまりに唐突で、でも、ぼくが心のどこかで待ち望んでいた言葉だった。

「……はい。行きたいです」



 電車を乗り継いで、ぼくらは夕陽に染まる海辺の小さな駅に降り立った。潮の香りを運んでくる夕暮れ時の風が、火照った肌に心地いい。

 今日の久美子先生は、真っ白なワンピースを着ていた。下ろした長い髪が、夏の終わりの風に柔らかく揺れている。いつも学校で見る先生とは全く違う、どこにでもいる普通の女の子みたいだ。

 いや、違う。

 ぼくにとっては、その辺のどんな女の子よりも、先生の方がずっとずっと綺麗だった。

ぼくの肩よりも少し高いくらいの背丈の先生。その小さな存在が、今はぼくの世界の全てだった。


 二人で砂浜を並んで歩く。

 金色に染まった海が眩しい。

 ざあ、ざあ、と寄せては返す波の音が、ぼくらの間の沈黙を埋めてくれる。夏休み最後の週末。砂浜で遊ぶ子どもたちの姿も、もうまばらだった。空には、秋の気配をまとった薄い雲が、夕焼けに染まりながら静かに流れていく。

 しばらく歩くと、ぼくらは防波堤に腰を下ろした。目の前には、どこまでも広がる黄金色の海と空。



「夏は蒸発するんだよ」

 金色の空の果てに目をこらすようにして、先生が言う。

「夏は蒸発したら、どこにいくの?」

「夏は高い空に昇ってしばらく降りてこないんだよ。酸素みたいに、夏素なつそとして存在はしてるんだけどね。夏素のない状態が冬。冬がやって来るんじゃなくて、夏素が蒸発して夏じゃなくなっただけなの」


 その言葉は、ただの季節の話ではない。この濃密な「夏素」に満ちたぼくら二人の時間も、やがて蒸発して、目に見えない高い空へと昇っていってしまうのだ。

 担任の田中先生は、もうすぐ退院してくるらしい。そうなれば、臨時の久美子先生は、この学校を去る。もう会えなくなる。二度と。その事実が、夏の終わりの海の物悲しい光景と重なって、ぼくの胸に迫った。


「先生は、いなくなっちゃうんですか」

 思わず漏れたぼくの声が掠れた。

 久美子先生は、驚いたようにぼくを見る。そして悲しそうに目を伏せた。

「……うん。わたしは、夏だけの、臨時の先生だから」

「秋から、別の学校に行くんですよね」

「よく覚えてたね」

 先生は、力なく笑った。

「先生がいなくなったら、おれ……」

 その先が、言えなかった。好きだ、なんて、言えるはずがなかった。言えば、先生を困らせるだけだ。そんなことは、まだ子どもでしかない高校生の自分でも分かる。この美しい思い出を、汚してしまうだけだ。


 ぼくの気持ちに気付いているのか、いないのか、彼先生は立ち上がって防波堤を降り、砂浜を波打ち際へと歩いていった。白いサンダルが波に濡れるのも構わずに。

 ぼくは、ただその後ろ姿を見つめていることしかできなかった。寄せては返す波が、彼女の足跡を静かに消していく。まるで、ぼくらの夏の記憶を、一つずつ洗い流していくかのように。


 消えゆく夕陽が、海を群青色に染め始めていた。空には一番星が、瞬き始めている。


「涼介!」

 不意に、久美子先生がぼくの名前を呼んだ。振り向いたその顔は、わずかな夕陽にかげって、先生がどんな表情をしているのかよく分からなかった。

「テスト、頑張ってね。大丈夫。涼介なら、きっとできるから」

 それは、先生としての言葉だった。でもぼくの名を呼ぶその声は、ぎりぎりの思いを載せて、微かに震えているような気がした。



 夏休みが明けた。

 実力考査の当日、ぼくは久美子先生の言葉を胸に、試験に臨んだ。

 けれど、数学の問題用紙を開いた瞬間、ぼくは絶望した。信じられないくらい、難しかった。夏休みの間、先生と必死で勉強した範囲も、応用されすぎていて手も足も出ない。

 時間だけが、無情に過ぎていく。もうダメだ。退学だ。母親の顔、久美子先生の顔が、次々と浮かんでは消えた。

 諦めかけたその時、最後の大問が目に飛び込んできた。


 ―――これは。


 それは、二次関数に関する問題だった。夏休みの終わり、先生が「このタイプの問題は、今年の入試のトレンドだから、絶対に解けるようにしておこうね」と言って、何度も何度も、解き方の手順から考え方まで、徹底的に教えてくれた問題とそっくり。いや、ほとんど同じだった。


 ぼくは、憑かれたように鉛筆を走らせる。先生の声が、すぐ隣りで聞こえるようだった。

「まずは頂点を見つけるんだよ」

「そう、平方完成したら、そのまま水平移動してみて」。

 一つ一つの手順を、確かめるように。

 気が付けば、試験終了のチャイムが鳴っていた。

 帰って自己採点をしてみると、やはり点数は悲惨なものだった。100点満点で、40点。解けたのは、最後の大問だけ。

 ぼくは天を仰いだ。

 終わった。

 ぼくの夏も、高校生活も全て。



 結果が掲示されたのは、それから一週間後のことだった。

 どうせダメだと分かっていたから、ぼんやりとした日々を過ごしたぼくは、掲示を見に行くつもりもなかった。けれど、友達に無理やり引っ張られて、掲示板の前に立たされた。自分の受験番号を探す。どうせ、ない。そう思っていた。


 ―――あった。

 信じられなかった。特待生継続者のリストの中に、確かにぼくの番号があった。隣りで、友達が「すげえじゃん、涼介!」と肩を叩いている。何が起きたのか、分からなかった。


 放課後、恐る恐る担任に個人成績表をもらいに行った。

 数学、40点。偏差値、62.4。


「……え?」

 意味が分からなかった。どうして、40点でこんなに高い偏差値が出るんだ?

「今年の数学は、異様に難しくてな。平均点が28点だったんだよ。だから、40点でも立派なもんだ。特に最後の大問、あれを完答できたのは、学年でも数人しかいなかったらしいぞ。よくやったな、宮沢」


 担任の言葉を聞いた瞬間、すべてを理解した。

 そういうことだったのか。

 久美子先生は、このテストが恐ろしく難しくなることを知っていたんだ。そして、ぼくが普通に勉強しただけでは、到底太刀打ちできないことも。

 だから出題範囲の中から、確実に配点の高い一問を選び出して、それをぼくに完璧に解けるように、教え込んでくれたんだ。他の生徒が苦しむ中で、その一問さえ取れれば、点数は低くても偏差値で勝つことができる。

 もちろん問題の答えを教えることはできない。その中で久美子先生は、自分ができるできるぎりぎりのことをしてくれたんだ。

 ぼくのために。ぼくの未来を、守るために。

 胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。今すぐ、先生に会ってお礼を言いたかった。そして、聞きたかった。なぜぼくのために、そこまでのことをしてくれたのか、と。


 ぼくは、職員室に走った。

「あの、白石先生は……」

 そこにいた別の先生が、訳知り顔で答える。

「白石先生?ああ、臨時の。今日で終わりだよ。もう、挨拶して帰られたけど」


 ―――もう、いない。

 その言葉が、頭の中で何度も反響した。ぼくは、呆然と廊下に立ち尽くした。連絡先さえ知らない。もう二度と会うことはできないのかもしれない。


 自分の教室に戻り、机の中に教科書をしまおうとした時、何かが指に触れた。

 小さな、二つ折りのメモ用紙だった。

 開くと、そこには久美子先生の、少し右上がりの丁寧な文字があった。


『涼介へ


 テスト、お疲れ様。

 結果がどうであれ、あなたがこの夏、必死で頑張ったことを、わたしは知っています。

 だからどんな時も、自分を信じることをやめないで。


 あなたなら、きっと大丈夫。

 あなたの人生が、これからも輝かしいものでありますように。


 さようなら。

 そしてありがとう。


            白石久美子』


 手紙の最後、先生の名前の横に、y=x^2の放物線が小さく描かれていて、その下に、本当に小さな、小さなハートマークが、まるで数式の一部であるかのように、ひっそりと添えられていた。


 それを見た瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。

 久美子先生も、きっとぼくと同じ気持ちでいてくれたのだ。先生と生徒という壁に阻まれて、決して言葉にはできなかったけれど。

 この夏、ぼくらは確かに、同じ空を見て、同じ風を感じて、同じように心を焦がしていたのだ。

 誰もいない教室で、ぼくは声を殺して泣いた。



 季節は巡り、秋になった。

 ぼくは、特待生として学校に残り続けている。あれ以来、ぼくは人が変わったように勉強に打ち込むようになった。もう道に迷うことはなかった。久美子先生が信じてくれた自分を、裏切りたくなかったから。


 時々、ふと空を見上げる。

 高く高く、真っ青に澄み渡った秋の空。あの夏の、むせ返るような濃密な空気はもうない。

 夏素はすっかり蒸発して、高い空の向こうへと行ってしまったのだろう。



 遠く離れた街で、久美子もまた、新しい学校の窓から空を見上げていた。

 教壇に立ち、生徒たちの前で数学を教える毎日。充実している。けれど、心のどこかでは、いつもあの夏のことを思い出していた。

 無気力なようでいて、その瞳の奥に強い光を宿していた少年。不器用で、真っ直ぐで、どうしようもなく惹かれてしまった、たった一人の生徒。涼介。


 涼介と過ごした、二人だけの夏。

 夕立、アイス、蝉時雨、そして最後の海。短い、あまりに短い季節。それは、まるであの日見た虹のように儚く、けれど、人生で最も鮮やかな記憶として、胸に刻まれている。

 空気が冷たくなり、冬の気配が近づいてくる。

 夏素のない、静かな季節。



 ぼくらは別々の場所で、それぞれの道を歩いている。

 もう二度と会うことはないだろう。

 けれど、それでいいのだ。

 あの夏、ぼくらの周りに満ち溢れていた、あの記憶さえあれば。


 いつかまた季節が巡り、夏がやってくる。

 その時、空から降り注ぐ陽射しの中に、ぼくらはきっと、互いの面影を探すのだろう。

 蒸発してしまった、かけがえのない夏の欠片を。

 二人だけの、夏の記憶を。

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