第8話 帰還
「グレイス島は、あなたの帰る場所になりませんか」
投げやりになっていたことを見透かしたように、セファイドが穏やかに問いかけてくる。
「私が来なければ、サリバン国の船の沈没のどさくさに紛れて、出奔していたのでしょう?」
「……もう、失いたくないのだ」
一つの場所に留まり、大切な人々を作ると、裏切られた時のダメージが大きい。
ビジュー王国の王族に騙され裏切られ、故郷の森を焼かれたラズベリーは、臆病になってしまった。
失うくらいなら、最初から大切なものを作らなければ良い。
「私が、あなたと、あなたの大事なものを守ると約束します」
セファイドが静かに言う。
「だから、グレイス島に留まって欲しい。私も、そして島の民たちも、あなたを必要としています」
命がけで海の中まで追ってきたセファイドの言葉は、今まで逃げ回っていたラズベリーの心に強く響いた。
信じても、良いのだろうか。
「あなたは覚えていないようですが、昔、私はあなたに助けられた事があるのです。だから今度は、私があなたを助けたいのですよ」
「だから、それはいつじゃ?」
「ふふ。秘密です」
セファイドは、にっこり笑って答えない。
持ってまわった言い回しをしおって、私をからかっているのか。私は恐ろしい魔女だぞ。呪ってやるぞ。
ラズベリーは頬を膨らませ、目の前の銀髪の男を睨む。思い出の箱をひっくり返したが、こんな綺麗な男に会った記憶は無い。いったい、いつの話をしているのだろうか。
その夜は快晴だったため、ラズベリーとセファイドは、星空の下で眠ることができた。
男の近くで寝るのは、初めてだ。
ラズベリーは密かに緊張していたが、セファイドは一定の距離を保って、こちらに近づいてこなかった。安心したが、どこか物足りなく感じる自分もいる。私は、妻ではないのか。妻ということは、い、いかがわしいこともするのでは。
おかしなことに、彼と仮の婚約を結んでから、貞操の危険など想像したこともなかったのだ。魔女のラズベリーを襲う男がいるとは考えていなかったのもある。
結婚式は、聖堂で簡略の誓いを取り交わしただけで、披露宴などは無かった。結婚直後に別居に入ったので、近くで眠ったこともなかった。だからかもしれない、いまだセファイドと結婚した実感がわいていないのは。
しかし、空に輝く星を数えていると、自然に眠くなって、眼を閉じていた。
「おはようございます。ラズベリー」
「……むぅ」
「あなたの寝起きの顔が見られるなんて、幸せですね」
「?!」
フレンチトーストより甘い言葉で起こされて、ラズベリーはぎょっとして目が覚めた。
自分も彼も服を着ている。
そして、見上げた天井は青空で、陽光がまぶしい。
逆光に透かされたセファイドの銀髪が、きらきらと輝いている。
朝から綺麗すぎる男だ。
「うぅ。私から離れるのじゃ」
ラズベリーは接近するセファイドを押しのけた。
特に抵抗することなく離れるセファイドは、上機嫌な様子だ。
さて……どうやってグレイス島に戻ろうか。
「迎えを呼んでおきました」
セファイドが立ち上がり、島の方向を指さす。
すると、こちらに向かってくる白い軍船が目に入った。
あれは氷鳥号だ。
「いつのまに……どうやって」
「海で溺れる失態を見せてしまいましたが、取り返せそうで何よりです」
セファイドは余裕を取り戻したようで、嬉しそうに笑っている。
「帰りましょう。私たちの島へ」
まるでエスコートするように手を差し伸べられ、ラズベリーは頬を赤く染めながら、ためらいがちにその手をつかんだ。
迎えに来た氷鳥号の副長は、シンという名前らしい。
海の男らしい日焼けした逞しい体格の青年だ。
「船長! お邪魔だったでしょうか?!」
「私に対して、そんな邪推をしてくるのは、君くらいです。まったく、私の清いラズベリーの前で、余計なことを言わないでください」
「痛ってえ!」
セファイドは、笑顔でシンの頭にチョップを落としている。
「船長、シン副長は船長が泳げるか心配していましたよ!」
「ちくるんじゃねえよっ」
「君たちは、私に対する敬意が足りませんね……」
水夫たちはセファイドを囲んで、わいわい楽しそうに騒いでいる。セファイドは島の民にとても好かれているようだ。
無人島とグレイス島の距離は、そう離れていないので、帰りの船旅はあっという間だった。
氷鳥号はすべるように海の上を進んで、グレイス島の港に入った。
錨を下ろすのを待っていたかのように、港の役人が駆け寄ってくる。
「セファイド様! お戻りになられましたか! サリバン国の者を捕らえておりますが、いかが対処いたしましょう」
「そうですね……」
戻ってすぐセファイドは仕事につかまってしまった。
ラズベリーは彼を置いて、先に自分の店に戻ろうとする。魔女の店を開店していないので、馴染みの客は困っているだろう。
「―――大変だ! タルミーナの南で、魔物が暴れてる!」
歩き始めたところで、汗をかいて走ってきた男の叫びが耳に入る。
あの蛇の魔物だと、ラズベリーは直感した。